マイケル・S・フランクリン(Michael S. Franklin)の論文一覧:すぐ旅に出る心に「その寄り道、作業記憶の席まで奪ってますよ」と注意した心理学者
マイケル・S・フランクリン(Michael S. Franklin)のプロフィール
マイケル・S・フランクリンは、私たちの心が仕事や勉強を放り出し、どこかへ出かけてしまう現象を研究してきた心理学・認知科学の研究者です。
たとえば、本を読んでいたとしましょう。
目は文章の上をきちんと進んでいます。ページもめくっています。外から見れば、たいへん立派な読書姿です。
ところが、ふと気がつく。
「……ところで、何の話だったっけ?」
体は本の前にいるのに、心だけが昨日の失敗、週末の予定、晩ごはんの献立へと小旅行に出かけていたのです。しかも本人に断りもなく。
フランクリンが研究してきたのは、このような「心のさまよい」です。
公開されている論文の著者紹介では、カリフォルニア大学サンタバーバラ校の心理・脳科学部門で、研究プロジェクトに携わる研究者として紹介されています。主な関心は、心が課題から離れていく仕組みと、その状態を起きている最中に見つける方法でした。
「いま、どこへ行っていました?」を科学する
心がさまようこと自体は、誰にでもあります。
会議中に冷蔵庫の中身を思い出したり、説明を聞きながら昔の会話を再生したり、資料を読んでいる途中で「そういえば靴下を買わないと」と思ったりします。
脳内では議題より靴下のほうが緊急案件になる日もあるのです。
しかし、心のさまよいは目に見えません。
隣の人が静かに座っているからといって、話を聞いているとは限らない。もしかすると、その人の意識は南の島で波の音を聞いているかもしれません。
そこで研究では、ときどき参加者に質問します。
「今、目の前の課題に集中していましたか?」
「それとも、別のことを考えていましたか?」
こうして、本人にしか見えない心の動きを少しずつ記録していくわけです。
フランクリンたちの研究チームは、日常生活の中で心がどのくらいさまよっているか、その内容は何か、気分とどのように関係するのかを調べてきました。
研究者というより、心の抜き打ち調査員です。
「失礼します。先ほどまで意識はどちらへ?」
心には玄関も表札もありませんが、研究者はかなり粘り強く訪ねてきます。
心の寄り道は、全部悪いのか
心がそれると、読んだ内容が頭に入りにくくなったり、作業を間違えたりします。
そのため、心のさまよいは長いあいだ、「集中力を邪魔する困った現象」として語られることが多くありました。
たしかに、車の運転中や大切な説明を聞いている最中に、意識が遠足へ出かけるのは困ります。
「楽しい空想でした」で済まない場面もあります。
しかしフランクリンは、心の寄り道を一律に悪者扱いしませんでした。
彼が筆頭著者となった研究では、日常生活の中で心がそれていたときの内容と、その後の気分が調べられています。その結果、心のさまよいは全体として気分の低下と結びつきやすい一方で、本人が「興味深い」と感じることを考えていた場合には、目の前のことに集中していたときよりも、よい気分と結びつく場合がありました。
つまり、心の寄り道にも行き先があります。
過去の失敗を何度も巡回する寄り道もあれば、好きなこと、新しい考え、未来の計画へ向かう寄り道もある。
同じ「ぼんやり」でも、中身によって心への作用が違うのです。
これは、なかなか人間味のある結論ではないでしょうか。
「集中できない私はだめだ」
そう決めつける前に、
「ところで、私の心はどこへ行っていたのだろう?」
と尋ねてみる。
責めるより先に、行き先を確かめるのです。
心は脱走犯というより、好奇心の強すぎる散歩好きなのかもしれません。
目は口ほどに「ぼんやり」を語る
フランクリンたちは、心のさまよいを本人の回答だけでなく、体に現れる変化から見つけられないかとも考えました。
注目したものの一つが、瞳孔です。
瞳孔とは、目の中央にある黒い部分のこと。明るさによって大きさが変わりますが、注意や心の状態とも関係しています。
研究では、参加者に文章を一語ずつ読んでもらいながら瞳孔の大きさを測り、ときどき「いま文章に集中していましたか」と質問しました。
その結果、参加者が課題とは別のことを考えていたと報告する前には、集中していたときより瞳孔が大きくなっている傾向が確認されました。
目は文章を追っていても、瞳孔はこう告げていたのかもしれません。
「こちらの心、ただいま留守です」
もちろん、瞳孔だけを見れば誰が何を考えているのか分かる、という話ではありません。
しかし、心のさまよいが起きた瞬間を体の反応から見つけられるようになれば、学習や運転、作業を助ける仕組みにつながる可能性があります。
たとえば、文章を読んでいる人の集中が途切れたとき、学習用の機器がそっと知らせる。
「少し前から、文字だけ先に進んでいますよ」
そんな仕組みも、まったくの空想ではなくなってきます。
本人が気づかない学習にも、注意は必要だった
私たちは、意識して覚える勉強だけでなく、繰り返しの中で自然に規則やパターンを身につけることがあります。
「覚えよう」と力んでいないのに、いつの間にか手順が分かっている。こうした学習を、無意識的な学習と呼ぶことがあります。
では、本人が意識して覚えていないなら、注意が多少それても問題ないのでしょうか。
どうやら、そう簡単ではありません。
フランクリンたちの研究では、心のさまよいが多いと、本人が意識的に規則を覚えようとしていない課題でも、学習が妨げられる可能性が示されました。
脳としては、
「別に集中しなくても、裏側で覚えておきますよ」
と頼もしく働いてくれそうなものですが、実際には裏方にも注意という電源が必要だったようです。
表舞台の意識が旅に出ると、裏方の学習係まで薄暗くなる。
人間の脳は器用ですが、完全なながら作業の達人ではありません。
「それたことに気づく力」が、戻るための入口
フランクリンの研究で重要なのは、心がそれる回数だけではありません。
「自分の心がそれていることに気づいているか」という点にも注目しています。
私たちは、ぼんやりしている最中に、
「いま自分は別のことを考えているな」
と気づく場合があります。
一方で、数分たってからようやく、
「ずいぶん遠くまで来てしまった」
と気づくこともあります。
フランクリンたちは、注意欠如・多動症の傾向と心のさまよいの関係を調べた研究で、心がそれていることを自分で把握する力が、望ましくない心のさまよいと関係していることを報告しました。
研究結果からは、自分の注意がそれたことに気づきやすくする工夫が、心のさまよいによる悪影響を和らげる可能性が示されています。
これは、「絶対にぼんやりするな」という話ではありません。
人間の心に一日中、直立不動を命じても、おそらく無理です。
大切なのは、心が出かけたときに帰り道を見つけられること。
「また考えてしまった」と自分を叱るのではなく、
「いま心がそれていたな。では、戻ろう」
と気づく。
気づきは、心に取り付ける小さな鈴のようなものです。
遠くへ行くことを完全には防げなくても、「あ、動いた」と分かる。分かれば、戻る選択ができます。
注意力は、生まれつきで終わらない
フランクリンは、マイケル・D・ムラゼックらとともに、心を現在の経験へ戻す訓練についても研究しています。
大学生を対象にした研究では、参加者を、現在の感覚や体験に注意を向ける訓練を受けるグループと、栄養について学ぶグループに分けました。
約2週間後、注意を現在へ戻す訓練を受けたグループでは、読解を含む試験成績と作業記憶の成績が向上し、試験中に心がそれる回数も減っていました。栄養について学んだグループでは、同じ変化は確認されませんでした。
この研究が伝えているのは、注意力は「ある人にはある、ない人にはない」という固定された才能だけではない、ということです。
集中できない日があるからといって、脳に永久欠番の札が貼られたわけではありません。
注意はそれます。
それたことに気づきます。
そして、また戻します。
この小さな往復を重ねること自体が、訓練になるのです。
心を閉じ込めるのではなく、上手につき合う
フランクリンの研究を眺めていると、彼は心のさまよいを捕まえて牢屋に入れたいわけではないことが分かります。
たしかに、心のさまよいは読書や学習、仕事のじゃまになることがあります。
けれども、興味のある考えにふける時間が気分を明るくすることもある。新しい発想や未来の計画につながることもある。
問題は、心が動くことそのものではありません。
必要な場面で戻れないことや、心がどこへ行ったのか自分でも分からなくなることです。
だからこそ、フランクリンの研究は私たちに、少し変わった質問を投げかけます。
「集中できていますか?」
ではなく、
「あなたの心は、いまどこにいますか?」
集中力というと、歯を食いしばって一点を見続ける力を想像しがちです。
しかし本当の集中力とは、いっさい迷子にならない能力ではなく、迷子になった自分に気づいて戻ってくる能力なのかもしれません。
マイケル・S・フランクリンは、すぐに旅へ出る人間の心を責めるのではなく、その足取りを静かに追いかけてきた研究者です。
ページを読んでいたはずなのに、いつの間にか別のことを考えていた。
そんなときは、落ち込む前にこう言ってみてください。
「おかえり。ずいぶん遠くまで行っていたね」
心はたぶん、少し気まずそうな顔をしながら、また目の前の一行へ座り直してくれるでしょう。
参考文献・確認先:カリフォルニア大学サンタバーバラ校:マイケル・S・フランクリン参加研究の紹介 / Google Scholar:Michael S. Franklin 論文・引用情報 / PubMed:Michael S. Franklin 関連論文

マイケル・S・フランクリン(Michael S. Franklin)の研究から学べること
マイケル・S・フランクリンの研究から学べるのは、集中力とは「一度も気がそれない超能力」ではない、ということです。
私たちは集中できないと、すぐに自分を疑います。
「また別のことを考えてしまった」
「私は意志が弱いのではないか」
「どうしてほかの人みたいに、ずっと集中できないんだろう」
しかし、フランクリンの研究を知ると、こう言いたくなります。
「ちょっと待ってください。人間の心は、そもそもじっと座っているようにはできていませんよ」
心は、なかなか落ち着きません。
仕事中に昨日の会話を思い出し、読書中に夕食を考え、会議中に突然「そういえば昔飼っていた犬は元気かな」と、どうにも確認できない案件まで持ち出してきます。
しかも、心が遠くへ出かけている間も、目は資料を見ています。
うなずくことさえあります。
外見だけなら、たいへん熱心です。
ところが中身は留守。
この「体はここ、心はどこか」という人間らしい現象を、フランクリンは研究してきました。
そこから見えてくるのは、集中力を鍛える方法だけではありません。
自分の心とのつき合い方そのものです。
集中できない自分を、すぐに不良品扱いしない
まず学べるのは、心がそれることは珍しい失敗ではない、ということです。
本を読んでいたのに内容が残っていない。
話を聞いていたはずなのに、途中から記憶がない。
作業を始めたのに、気づけば全然違うことを調べている。
「北海道の面積って、どのくらいだろう」
今それを調べる必要はありません。
けれども、心というものは、必要性の会議を通さずに議題を持ち込んできます。
こうした現象が起きると、私たちは自分を責めがちです。
しかし、責めたところで集中が戻るとは限りません。
むしろ、
「まただめだった」
「自分は集中力がない」
「こんなこともできない」
と考えるうちに、目の前の作業からさらに遠ざかってしまいます。
心がそれたうえに、自己批判まで始まる。
脳内で迷子になったあと、なぜか反省会場へ直行してしまうのです。
フランクリンの研究から学べるのは、ここで自分に判決を出さなくてよい、ということです。
必要なのは、人格診断ではありません。
「いま、心がそれていたな」
と気づくことです。
心がそれた事実と、自分の価値は別物です。
集中が途切れたからといって、人間として欠陥があるわけではありません。
ただ、心が少し散歩へ出ていただけです。
本当に大切なのは「それないこと」より「気づくこと」
集中力がある人というと、長時間ずっと一点を見つめられる人を想像します。
まるで心の中に、屈強な門番が立っているような人です。
「雑念、立ち入り禁止」
「晩ごはんの相談は午後六時以降にしてください」
しかし実際の人間の心に、そこまで厳重な門番はいません。
だいたい居眠りしています。
そのため、心がそれることを完全に防ぐのは難しいのです。
そこで重要になるのが、「それたことに気づく力」です。
たとえば文章を読んでいて、三段落ほど進んだところで、
「何も頭に入っていない」
と気づいたとします。
この瞬間、私たちは失敗したように感じます。
けれども、別の見方もできます。
気づけたから、戻れるのです。
もし気づかなければ、ページだけが進み、心は別の町まで行ってしまいます。
気づくことは、集中が切れた証拠であると同時に、集中へ戻る入口でもあります。
「またそれた」
ではなく、
「戻る場所が見つかった」
と考えてみる。
この違いは小さく見えますが、心への影響は大きいものです。
自分を責めながら戻るのと、静かに戻るのでは、同じ一行を読み直すにしても疲れ方が違います。
集中力とは、まっすぐ一本の線ではありません。
それて、気づいて、戻る。
またそれて、また戻る。
少し蛇行しながら進む川のようなものです。
きれいな直線ではなくても、ちゃんと前へ流れていきます。
心の寄り道は、行き先によって意味が違う
フランクリンの研究がおもしろいのは、心のさまよいを、すべて悪いものとして扱っていないところです。
心が目の前の課題から離れているとき、何を考えているかによって、その意味は変わります。
たとえば、過去の失敗を繰り返し思い出している場合。
「あのとき、あんなことを言わなければよかった」
「どうして私は、いつも同じ失敗をするんだろう」
こうした思考が続けば、気分が沈みやすくなります。
心が寄り道しているというより、同じ交差点を何度もぐるぐる回っている状態です。
一方で、好きなことや興味のあることを考えている場合もあります。
新しい企画のアイデアが浮かんだり、休日の楽しみを想像したり、人生で大切にしたいことを考えたりする。
このような心のさまよいは、場合によっては気分のよさと結びつくことがあります。
つまり、問題は単に「集中しているか、していないか」だけではありません。
心がどこへ向かっているのか。
そこで何をしているのか。
これが大切なのです。
心がそれたとき、すぐに叱るのではなく、少し観察してみる。
「いま、何を考えていた?」
「その考えは、私を元気にしている?」
「それとも、同じ傷を何度も触っている?」
こうして心の行き先を確かめると、自分の状態が見えやすくなります。
心のさまよいは、ただの集中力不足ではありません。
ときには、自分が何を気にしているのかを教えてくれる手紙でもあります。
ただし、封筒には差出人が書かれていません。
こちらから開けて、内容を確かめる必要があります。
「ぼんやりしていても学べる」は、少し危ない
私たちはときどき、脳を過大評価します。
「聞き流していても、そのうち覚えるだろう」
「動画を流しておけば、無意識に勉強になるかもしれない」
「仕事をしながら聞けば、一石二鳥だ」
一石二鳥という言葉は魅力的です。
しかし現実には、一石を投げたら鳥が二羽とも逃げることもあります。
フランクリンたちの研究からは、本人が意識して覚えようとしていない学習であっても、心がそれていると学びが弱くなる可能性が示されています。
つまり、脳の裏方も無限に働けるわけではありません。
表では仕事をし、耳では講座を聞き、頭の片隅で明日の予定を考え、さらに人生について悩む。
これだけ同時に頼まれれば、脳も言いたくなるでしょう。
「担当者を増やしていただけますか」
残念ながら、脳は一つです。
何かを身につけたいときは、短い時間でもよいので、その対象に注意を向ける必要があります。
長時間だらだら続けるより、十数分だけでも、
「今はこれをする」
と決めたほうが、学習には役立つことがあります。
ここで大切なのは、集中時間を長くすることだけではありません。
注意の向きをはっきりさせることです。
いま読むのか。
いま聞くのか。
いま考えるのか。
一つずつ選ぶ。
脳に対して、仕事の依頼書を一枚ずつ渡すようなものです。
集中が切れる前提で、環境をつくる
フランクリンの研究を日常に生かすなら、「自分は気合いで集中できる」と考えすぎないことも大切です。
人間の注意は、それほど頑丈ではありません。
通知が鳴れば見たくなります。
机の上に別の資料があれば気になります。
スマートフォンが視界に入れば、
「何も来ていないと思うけど、一応確認しておこう」
という謎の一応が発生します。
そして確認すると、本来の作業とは関係のない情報が次々と現れます。
気づけば、知らない人の猫が段ボールに入る動画を見ています。
猫に罪はありません。
しかし仕事は進んでいません。
こうしたとき、「誘惑に負ける自分が悪い」と考えるより、最初から環境を整えたほうが現実的です。
通知を切る。
スマートフォンを手の届かない場所へ置く。
作業に必要のない画面を閉じる。
机の上に、いま使うものだけを出す。
集中する時間を短く区切る。
これらは、自分を甘やかす工夫ではありません。
注意力の特徴を理解したうえでの設計です。
雨が降る日に傘を持つ人を、「雨に負けた弱い人」とは言いません。
注意がそれやすいと分かっているなら、それに合わせて環境をつくる。
それは弱さではなく、知恵です。
短い休憩は、逃げではなく整備になる
集中力が落ちているのに、無理やり続けることがあります。
「ここで休んだら負けだ」
「あと一時間は頑張らなければ」
しかし、心はすでにどこかへ出かけている。
体だけが机に残り、作業している雰囲気を守っている状態です。
これは、ガソリンの少ない車に向かって、
「気合いで走れ」
と言っているようなものです。
車は困ります。
人も困ります。
心が何度もそれるときは、集中力が足りないのではなく、疲れている可能性があります。
そんなときは、一度立ち上がる。
水を飲む。
窓の外を見る。
少し歩く。
深呼吸をする。
数分だけ目を閉じる。
こうした短い休憩によって、注意を戻しやすくなる場合があります。
ただし、休憩のつもりで動画を見始め、四十分後に世界各地の珍しい祭りに詳しくなっていることもあります。
それは休憩というより、別の旅です。
休むときは、情報を増やしすぎないことが大切です。
脳を休ませるはずが、新しい刺激を大量に渡してしまうと、心の机がさらに散らかります。
休憩は空白をつくる時間です。
何かを詰め込む時間ではありません。
心を現在に戻す練習は、地味だけれど役に立つ
フランクリンが参加した研究では、現在の体験へ注意を戻す練習によって、心のさまよいが減り、作業記憶や読解に関する成績が改善したことが報告されています。
ここでいう練習は、何か特別な境地に到達するものではありません。
呼吸や体の感覚、いま聞こえる音などに注意を向け、心がそれたらまた戻す。
基本はこれだけです。
とても地味です。
映画なら、予告編の時点で派手な場面が足りないと心配されるでしょう。
けれども、この地味な往復が大切なのです。
呼吸に注意を向ける。
別のことを考える。
気づく。
呼吸へ戻る。
また別のことを考える。
また戻る。
「全然集中できていないではないか」
と思うかもしれません。
しかし、戻るたびに練習は成立しています。
筋力トレーニングで、重りを持ち上げる動作を繰り返すように、注意も戻す動作を繰り返すことで鍛えられます。
最初から心を無にする必要はありません。
そもそも「無にならなければ」と考えている時点で、かなり何かを考えています。
目標は、雑念を永久追放することではありません。
雑念に気づき、必要な場所へ戻る力を育てることです。
「集中できる人」より「戻ってこられる人」を目指す
フランクリンの研究から学べることを一言でまとめるなら、集中力の見方を変えよう、ということです。
私たちは集中力を、途切れないものだと思っています。
しかし実際には、集中は何度も途切れます。
それでも、気づいて戻ればよい。
大切なのは、一度も道を外れないことではありません。
道を外れたときに、自分を責めすぎず、また進行方向を確かめられることです。
仕事中に別のことを考えていた。
読書中に心が遠くへ行っていた。
会話中に昨日の出来事を思い出していた。
そんなとき、こう声をかけてみてください。
「おっと、心が出かけていたな」
そして、できる範囲で戻る。
戻れなければ、少し休む。
何度もそれるなら、環境を変える。
気になる考えがあるなら、紙に書いてあとで向き合う。
この柔らかな対応こそ、長く集中するための現実的な方法です。
心は、命令だけでは動きません。
力ずくで椅子に縛りつけようとすると、かえって暴れます。
それよりも、
「今はこちらをお願いします」
と、その都度やさしく案内する。
集中力とは、心を監禁する力ではなく、何度でも迎えに行く力なのかもしれません。
マイケル・S・フランクリンの研究は、すぐに寄り道する私たちの心へ、こんな言葉を届けてくれます。
「迷子になったことを責めなくていい。現在地に気づけば、そこからまた戻れる」
心が今日も勝手に散歩へ出かけたなら、ため息をつく前に、静かに呼び戻してみましょう。
「そろそろ続きに戻りませんか」
心はすぐには返事をしないかもしれません。
それでも、何度か声をかければ、たいていは少し遅れて帰ってきます。

マイケル・S・フランクリン(Michael S. Franklin)の論文一覧
1.『さまよう心を「今ここ」へ-マインドフルネス訓練がワーキングメモリ容量とGRE成績を向上させる』マイケル・D・ムラゼック、マイケル・S・フランクリン、ダワ・タルチン・フィリップス、ベンジャミン・ベアード、ジョナサン・W・スクーラー(2013)
Mrazek, M. D., Franklin, M. S., Phillips, D. T., Baird, B., & Schooler, J. W.(2013). Mindfulness Training Improves Working Memory Capacity and GRE Performance While Reducing Mind Wandering. Psychological Science, 24(5), 776–781. DOI:10.1177/0956797612459659
「集中しなさい」と言われるほど、心は窓から逃げたくなる。では、逃げ足の速い心にどう向き合えばいいのか。大学生を対象に、約2週間のマインドフルネス訓練を行ったところ、心のさまよいが減り、作業記憶と大学院進学適性試験の読解成績が向上しました。脳にムチを入れたのではなく、「はい、今ここへ戻りましょう」と静かに案内したら、記憶の席が空いたのです。しかも、とくに気が散りやすかった人ほど、その変化が成績向上につながりました。集中力は根性なのか、それとも戻る練習なのか。ぼんやり脳の常識を、そっとひっくり返してくれる論文です。

