ジョン・アラン・クリントン・ハッティ(John Allan Clinton Hattie)の論文一覧:教育界の「それ、本当に効果あります?」に巨大な成績表を持ってきた研究者
ジョン・アラン・クリントン・ハッティ(John Allan Clinton Hattie)のプロフィール
ジョン・アラン・クリントン・ハッティ(John Allan Clinton Hattie)は、1950年にニュージーランドのティマルで生まれた教育研究者です。
この人をひと言で紹介するなら、
「教育界の『それ、本当に効果あります?』担当」
とでも言えばよいでしょうか。
先生が、
「この教え方、昔から評判いいんですよ」
と言えば、
「なるほど。で、成績はどれくらい伸びました?」
学校が、
「少人数学級はやっぱり大事でしょう」
と言えば、
「そうですね。では、ほかの方法と比べると効果はどのくらいでしょう?」
教育評論家が、
「子どもはとにかく褒めて伸ばすんです!」
と熱弁すれば、
「わかりました。では研究結果を並べてみましょう」
と、机いっぱいに資料を広げ始める。
そんな感じの研究者です。
もちろん実際に会議室で毎回こんなことを言っているわけではありませんが、ハッティの研究姿勢はかなり一貫しています。
「良さそうに見える教育」と「実際に学習成果につながる教育」は、同じなのだろうか。
ここを、できるだけ数字で確かめようとしてきた人物なのです。
教育学者なのに、かなり「数字の人」
ハッティはニュージーランドのオタゴ大学で学び、その後カナダのトロント大学で博士号を取得しました。博士論文は、教育思想について延々と語るようなものではなく、測定や統計に深く関係する内容でした。
つまり研究者としての出発点からして、
「教育って大切ですよね」
という人ではなく、
「その“大切”って、どうやって測ります?」
という人だったわけです。
その後、西オーストラリア大学、アメリカのノースカロライナ大学グリーンズボロ校、ニュージーランドのオークランド大学などで研究・教育に携わり、2011年にはオーストラリアのメルボルン大学へ移りました。メルボルン大学では教育研究を率いる立場を務め、現在は同大学の名誉教授として紹介されています。
研究分野は、教育評価、学習成果の測定、自己概念、教え方と学び方など。
ただし、ハッティの名前を世界的に有名にしたのは、それらを一つひとつ研究したことだけではありません。
この人、ほかの研究者たちが何十年もかけて積み上げてきた研究を、ものすごい規模でまとめ始めたのです。
ここから話がだんだん巨大になります。
「研究が多すぎてわからない? では全部まとめましょう」
教育研究には困ったところがあります。
たとえば「宿題は効果があるのか」を調べた研究があったとします。
研究Aでは、
「効果がありました」
研究Bでは、
「そこそこでした」
研究Cでは、
「ほとんど変わりませんでした」
となる。
すると私たちは、
「結局どっちなんだい」
となります。
そこで使われるのが、多くの研究結果をまとめて全体の傾向を見る「メタ分析」という方法です。
普通の研究が一つの試合を見るものだとすれば、メタ分析はシーズン全体の成績を見るようなものです。
ところがハッティは、そのメタ分析をさらに大量に集めました。
「一試合ではわからないからシーズンを見よう」
ではなく、
「シーズンが大量にあるので、それもまとめて見よう」
という話です。
もう教育研究の上空から人工衛星で眺めているような規模です。
そして、その長年の仕事をまとめた代表作が、2009年に刊行された『見える学習』です。
この研究では、800を超えるメタ分析が統合され、約5万件の研究、8000万人を超える児童・生徒に関係するデータが扱われました。メルボルン大学も、この仕事を学習を改善する要因について調べた世界最大級の根拠に基づく研究として紹介しています。
普通の研究者が書類の山を見て、
「これを全部読むのか……」
とコーヒーを淹れに行くところで、
ハッティは、
「では、比較できる形にしましょう」
と腕まくりしたわけです。
教育方法に「成績表」をつけてしまった
ハッティの研究が注目された理由は、その巨大さだけではありません。
彼はさまざまな教育上の要因について、
「どれくらい学習成果に影響するのか」
を「効果量」という数字で比較しました。
難しそうな言葉ですが、考え方はそれほど怖くありません。
要するに、
「それをやったとき、どのくらい変化したの?」
を見るための数字です。
たとえば、
宿題。
少人数学級。
教師からのフィードバック。
教師と生徒の関係。
学習方法。
生徒自身の期待。
家庭環境。
学校の制度。
こうしたものを、
「大事そう」
「なんとなく良さそう」
ではなく、
「実際の研究では、どれくらいの影響が出ているのか」
という同じ土俵に乗せて比較しようとした。
教育界に突然、巨大な成績表を持ち込んできたようなものです。
「はい、宿題さんはこちら」
「フィードバックさんはこちら」
「学級規模さん、ちょっと前へ」
「教師と生徒の関係さん、かなり上ですね」
という具合です。
もちろん教育は競馬ではありませんから、「1位の方法だけやればいい」という話ではありません。
ここはハッティ研究が誤解されやすいところでもあります。
数字は順位表というより、
「私たちは、何に時間と力を使うべきなのだろう?」
と考えるための地図なのです。
ハッティが本当に見たかったのは「先生の影響」
ハッティの研究を「効果の高い教育方法ランキング」だけで理解すると、少しもったいないところがあります。
彼が強く問い続けてきたのは、
教師は、自分の教え方が生徒にどんな影響を与えたのかをちゃんと確かめているか
という問題だからです。
「今日はいい授業だった」
と思って帰る先生がいたとします。
でも、生徒は何も理解していないかもしれない。
逆に、
「今日はうまく説明できなかったなあ」
と思った授業で、生徒は大きな気づきを得ているかもしれない。
つまり、
「教えた」と「学んだ」の間には、ときどき結構な距離がある。
教師の説明が終わった瞬間に、学習が成立したことにはならないのです。
だからこそ、ハッティは教師が自分の働きかけの影響を確かめることを重視します。
「私はちゃんと教えました」
で会議を終わらせず、
「で、生徒には何が起きました?」
まで見に行く。
ここにハッティ研究の中心があります。
フィードバックが重要なのは「褒めるため」ではない
ハッティの研究で特によく知られているテーマの一つが、フィードバックです。
日本語では「助言」「振り返りのための情報」「結果を返すこと」などと考えるとわかりやすいでしょう。
ただ、
「すごい!」
「頑張ったね!」
「君ならできる!」
と声をかければ全部解決、という話ではありません。
大切なのは、
「今どこまでできているのか」
「目標まで何が足りないのか」
「次に何をすればいいのか」
がわかることです。
たとえば数学のテストで60点だった生徒に、
「もっと頑張りましょう」
とだけ書いて返しても、
生徒としては、
「はい。具体的には?」
となります。
一方、
「計算はできています。ただし文章題で式を作るところにつまずいています。次はそこを練習しましょう」
と言われれば、次の一歩が見える。
フィードバックとは、単なる評価ではなく、
学習者が次に進むための現在地表示
なのです。
ハッティは、教師と生徒の関係やフィードバック、教師の働きかけなど、学習の過程そのものに関係する要因を重視してきました。
「もっと設備を」「もっと制度を」の前に見るもの
教育の議論では、大きな話が人気です。
「学校制度を変えよう」
「最新設備を導入しよう」
「学級人数を減らそう」
「新しい教材を入れよう」
もちろん、どれも重要な議論です。
ところがハッティは、そこへ少し面倒な質問を差し込みます。
「それによって、実際の学びはどれくらい変わりました?」
夢いっぱいの企画会議に、経理担当者が電卓を持って入ってきたような瞬間です。
ただ、これは教育を冷たく数字だけで見るという意味ではありません。
むしろ逆です。
時間も予算も教師の体力も有限だからこそ、
本当に子どもの学びにつながるところへ力を使おう
という発想なのです。
1992年の研究でも、ハッティは多数のメタ分析をまとめ、教育成果に関係する重要な要因について検討しています。かなり早い時期から、彼の関心が「何が教育を実際に動かしているのか」に向いていたことがわかります。
ただし、数字を「教育の神託」にしてはいけない
ここはかなり大事です。
ハッティの研究は世界中の教育関係者に大きな影響を与えましたが、その方法に批判がないわけではありません。
むしろ、
「そんなに違う研究を一つの数字で比較して大丈夫なの?」
「研究された年代も年齢も教科も違うのに、同じように並べられるの?」
「効果量という数字を、教育方法の万能ランキングのように扱っていいの?」
という統計的な批判があります。
実際、統計学の立場から『見える学習』の方法論を厳しく検討した論文も発表されています。
ここはとても面白いところです。
ハッティ自身が、
「教育は印象だけではなく、根拠を見ましょう」
と言った。
ならば私たちは、
「ハッティの研究も根拠を見ましょう」
と言っていい。
むしろ、それこそ科学的な態度でしょう。
ハッティ先生、
「数字を疑え」と教えてくれたので、
あなたの数字も疑わせていただきます。
研究という世界は、なかなか容赦がありません。
「何をしたか」ではなく「何が起きたか」
それでも、ハッティが教育界に残した問いは強烈です。
教育では、ときどき「やったこと」が成果になってしまいます。
研修を実施した。
教材を導入した。
面談をした。
褒めた。
指導した。
新しい制度を作った。
そこで仕事を終えた気になってしまう。
しかしハッティの研究姿勢を借りれば、
「それで、何が変わりました?」
というもう一つの質問が必要になります。
教えたあと、生徒は理解したのか。
助言したあと、行動は変わったのか。
褒めたあと、本人は次に何をすればよいかわかったのか。
研修したあと、教師の授業は変わったのか。
つまり彼が教育界に持ってきた巨大な成績表は、人を順位づけするためのものではありません。
「私たちのやっていることは、本当に相手の役に立っているのだろうか」
と振り返るための鏡だったとも言えます。
現在、メルボルン大学ではハッティは名誉教授として位置づけられており、教育評価や測定の分野でその名前を見ることができます。彼の研究は、賛同だけでなく批判も巻き込みながら、現在も世界の教育現場で読み継がれています。
「昔からこうしてきたから」
「有名な先生が言っているから」
「なんとなく子どもによさそうだから」
そんな言葉が教育界を歩いていると、遠くからハッティがやってくる。
片手には大量の研究論文。
もう片手には電卓。
そして、おそらくこう聞くでしょう。
「なるほど。それで、本当に学習には効果がありましたか?」
教育に正解はなかなかありません。
だからこそ、思い込みではなく確かめ続ける。
ジョン・ハッティは、その少し面倒で、でも非常に大切な問いを、世界中の教室に持ち込んだ研究者なのです。
参考文献・確認先:メルボルン大学:John Hattie 公式プロフィール / Google Scholar:John Hattie 論文・引用情報 / PubMed:John A. C. Hattie 関連論文 / ORCID:John Hattie 研究者情報

ジョン・アラン・クリントン・ハッティ(John Allan Clinton Hattie)の研究から学べること
ジョン・アラン・クリントン・ハッティの研究から学べることは、教育の世界だけにとどまりません。
学校の先生ではない人にも、かなり刺さる話があります。
というのも、ハッティが長年やってきたことを、とても乱暴に一言でまとめるなら、
「で、それ、本当に相手に届いてます?」
と聞き続けることだからです。
私たちは日常生活で、意外なほど「やったこと」と「効果があったこと」を混同しています。
説明した。
注意した。
褒めた。
アドバイスした。
会議をした。
研修をした。
資料を渡した。
そして満足する。
「よし、伝えたぞ」
ところが相手の頭の中では、
「……で、私は何をすれば?」
となっていることがあります。
ハッティの研究は、そんな人間社会の「やったつもり問題」に、巨大な懐中電灯を当ててくれます。
「教えた」ではなく「学んだ」を見る
ハッティの研究から学べる第一のことは、
自分が何をしたかではなく、相手に何が起きたかを見る
ということです。
先生が一生懸命説明した。
黒板もきれい。
資料も完璧。
声もよく通った。
時間ぴったりに授業終了。
先生としては、
「今日はいい授業だった」
と思うかもしれません。
しかし、生徒がまったく理解していなかったらどうでしょう。
少々残酷ですが、「先生が頑張った」という事実と、「生徒が学んだ」という事実は別です。
ここがハッティ的な視点のおもしろいところです。
努力を否定しているのではありません。
むしろ、
「せっかく努力したなら、その努力が届いたかまで見ませんか」
と言っている。
これは職場でも同じです。
上司が、
「ちゃんと説明しただろう」
と言う。
部下は、
「説明された記憶はあります。でも理解した記憶がありません」
となる。
家庭でも、
「何度言ったらわかるの!」
と言う。
子どもは心の中で、
「何度聞いても、何をどう直せばいいのかわかりません」
と思っているかもしれない。
伝えることと、伝わること。
この二つの間には、ときどき小さな川どころか、日本海くらいの距離があります。
だからハッティの研究を日常に持ち帰るなら、
「私はちゃんと説明したか?」
だけではなく、
「相手はどう受け取っただろう?」
まで確認する。
これだけでも、人との関わり方はかなり変わります。
「頑張れ」より「次はここ」
ハッティの研究でよく知られているテーマの一つが、フィードバックです。
日本語にするなら、「相手が次に進むための情報を返すこと」と考えるとわかりやすいでしょう。
ここで大事なのは、
フィードバックとは、単に褒めることではない、
という点です。
たとえばテストで60点だった人に、
「もっと頑張ろう!」
と言ったとします。
気持ちは温かい。
悪意もない。
しかし言われた側からすると、
「承知しました。それで、何を?」
となります。
数学なのか。
漢字なのか。
勉強時間なのか。
問題の読み方なのか。
復習方法なのか。
「頑張る」という巨大な霧の中に放り出されてしまいます。
一方、
「計算はかなりできています。ただ文章題で、問題文から式を作るところにつまずいています。次はそこを練習してみましょう」
と言われたらどうでしょう。
急に道が見えます。
つまり、役に立つフィードバックとは、
「あなたはダメです」
でも、
「あなたは素晴らしいです」
でもありません。
「今ここにいて、目標はあそこです。次はこの道を進むとよさそうです」
という案内板なのです。
人生には、「もっと頑張れ」という看板が多すぎます。
できればその隣に、
「なお、次の交差点を右です」
まで書いておいてほしいものです。
褒めることも、叱ることも「目的」ではない
ここからもう一歩進むと、ハッティの研究は私たちに少し耳の痛いことを教えてくれます。
私たちはしばしば、
「褒めれば伸びる」
「厳しく言えば伸びる」
という二択で考えます。
しかし本当に大事なのは、
褒めたか叱ったかではなく、その言葉によって相手の学びが前に進んだか
です。
たとえば、
「さすが○○さん! 本当に優秀ですね!」
と言われたとします。
気分はいい。
ちょっと背筋も伸びる。
帰り道にコンビニでプリンを買ってもいいくらい嬉しい。
でも、
「何がよかったのか」
がわからなければ、次に再現できません。
反対に、
「ここがダメです」
だけ言われても、
「はい、ダメなんですね」
で止まります。
大事なのは、
「今回よかったのは、相手の話を最後まで聞いてから提案したところです」
とか、
「ここは説明が長くなっているので、次は結論を先に伝えてみましょう」
といった情報です。
つまり評価ではなく、改善につながる情報を渡す。
これは仕事でもかなり使えます。
「よかったです」
より、
「冒頭に結論があったので、とても読みやすかったです」。
「もっとしっかりして」
より、
「提出前に日付と名前だけもう一度確認してください」。
具体的になるだけで、言葉は急に働き始めます。
相手の「現在地」を知らずに教えない
ハッティの研究を読んでいると、教育とは一方的に情報を流し込む作業ではないことが見えてきます。
教える側は、
「ここまで説明すればわかるだろう」
と思います。
しかし相手がどこまで理解しているかによって、必要な支援は変わります。
九九につまずいている人に因数分解を熱弁しても、
「先生、まず入口に戻ってください」
となります。
反対に、すでに理解している人へ延々と基礎説明を続ければ、
「先生、私はいつまでこの駅に停車していればいいのでしょうか」
となる。
だから大切なのは、
目標だけでなく現在地を見ること。
これは教育だけではありません。
新人職員に仕事を教えるとき。
子どもに家事を頼むとき。
誰かにスマートフォンの操作を教えるとき。
相談に乗るとき。
まず、
「この人は今、どこまでわかっているのだろう」
を見る。
地図を渡す前に、現在地の赤い丸をつけるわけです。
現在地が北海道なのに、
「大阪まであと20キロですよ」
と言われても困ります。
「自分ではできているつもり」が一番危ない
ハッティの考え方には、教える側にとってなかなか厳しい部分があります。
それは、
自分の働きかけの効果を、自分で確かめる必要がある
ということです。
先生なら、
「いい授業をしたつもり」
で終わらない。
上司なら、
「わかりやすく指示したつもり」
で終わらない。
支援者なら、
「いい助言をしたつもり」
で終わらない。
相手の反応を見る。
質問する。
結果を見る。
必要ならやり方を変える。
つまり、
「私は正しい方法を知っています」
という立場ではなく、
「この方法、ちゃんと効いているかな?」
と確認し続ける立場に立つのです。
これはなかなか勇気がいります。
なぜなら確認した結果、
「全然伝わっていませんでした」
ということもあるからです。
悲しい。
資料を三時間かけて作ったのに。
図まで入れたのに。
見出しの色まで悩んだのに。
しかし、そこで、
「相手が理解しないのが悪い」
とするのか、
「では別の方法を試してみよう」
と考えるのか。
ハッティの研究から学べるのは、後者の姿勢です。
うまくいかなかったことは、自分への判決ではありません。
次の方法を考えるための情報です。
ここは教育だけでなく、生き方としてもかなり大切だと思います。
「人気の方法」と「効果のある方法」は同じとは限らない
人間は「それっぽいもの」に弱い生き物です。
新しい。
有名。
専門家がすすめている。
テレビで紹介された。
横文字が長い。
このあたりがそろうと、なんとなく効きそうに見えてきます。
教育の世界も例外ではありません。
新しい教材。
新しい教育法。
新しい制度。
新しい機器。
もちろん新しいものが悪いわけではありません。
ただ、ハッティ的に考えるなら、
「新しいですね」
の次に、
「それで、学習は実際にどう変わったのですか?」
という質問が入ります。
この質問は教育以外にも使えます。
新しい健康法。
新しい仕事術。
新しい勉強法。
新しい自己啓発法。
「朝4時に起きると人生が変わる!」
と言われても、
「睡眠時間が減っただけでは?」
と一度考える。
「この手帳術で生産性が2倍!」
と言われても、
「手帳を書く時間が2倍になっていませんか?」
と見る。
ハッティの研究が教えてくれるのは、
雰囲気ではなく結果を見る習慣
なのです。
ただし「数字が高ければ正義」でもない
ここで注意したいのが、
「じゃあ全部数字で決めればいいんだ」
という方向へ走らないことです。
ハッティの研究では、さまざまな教育上の働きかけを「効果量」という数字で比較します。
するとどうしても、
「数字が大きいものを上から全部やれば最強の学校ができますね!」
と言いたくなります。
ゲームの装備一覧ではありません。
教育には、
年齢、
教科、
地域、
学校環境、
生徒の特徴、
教師との関係、
実施方法など、
たくさんの条件があります。
ある場所で大きな効果があった方法が、どこでも同じように働くとは限りません。
だから数字は、
「これが絶対正解です」
という判決文ではなく、
「ここをもう少し詳しく見てみませんか」という手がかり
として使う方がよいでしょう。
数字は懐中電灯です。
照らしてはくれますが、人生のハンドルまでは握ってくれません。
「誰が正しいか」より「何が役に立つか」
ハッティの研究姿勢には、もう一つ魅力的なところがあります。
教育について議論すると、
「この教育法が正しい」
「いや、こちらだ」
「昔ながらの教育が一番だ」
「いや、新しい教育へ変えるべきだ」
と、だんだん宗派のようになることがあります。
しかし学ぶ側からすれば、
「どっちの先生が勝つかはいいので、私がわかる方法をお願いします」
という話です。
ここから学べるのは、
方法への忠誠心より、目的への忠誠心を持つ
ということです。
自分の好きな方法を守ることが目的ではありません。
相手が学べることが目的です。
だからAという方法がうまくいかなければ、Bを試せばいい。
BでもダメならC。
「私はA方式の人間なので!」
と腕組みしている場合ではありません。
これは仕事にも支援にも子育てにも当てはまります。
大切なのは、
「私はこの方法を使いました」
ではなく、
「この人にとって、この方法は役に立ちました」
です。
本当の意味で「相手を見る」ということ
ハッティの研究は数字を大量に扱います。
そのため、一見すると冷たい研究に見えるかもしれません。
何万人。
何百件の研究。
効果量。
統計。
数字、数字、数字。
ところが、その奥にある問いは意外なくらい人間的です。
「この子に、本当に届いているだろうか」
という問いだからです。
自分が話した量ではなく、相手が受け取れた量を見る。
自分が頑張った時間ではなく、相手に起きた変化を見る。
自分が正しいかではなく、相手の役に立ったかを見る。
これはかなり優しい考え方でもあります。
相手ができないとき、
「本人の努力不足だ」
とすぐ結論づけるのではなく、
「別の教え方ならどうだろう」
「伝え方を変えたらどうだろう」
「目標はわかっているだろうか」
「現在地をこちらが勘違いしていないだろうか」
と考える余地が生まれるからです。
ハッティが私たちに置いていった質問
ジョン・ハッティの膨大な研究を全部読むのは大変です。
本棚に並べただけで、
「今日はよく勉強した」
という気持ちになりそうな量があります。
でも、その中心にある問いは意外とシンプルです。
何かを教えたとき。
誰かを支援したとき。
部下に仕事を頼んだとき。
子どもに声をかけたとき。
誰かに助言したとき。
そこで一度だけ、こう聞いてみる。
「それで、この人に何が起きただろう?」
説明したから終わりではない。
褒めたから終わりでもない。
注意したから終わりでもない。
相手が少し前へ進めたのか。
次に何をすればいいかわかったのか。
自分の現在地が見えたのか。
そこまで見て、ようやく言葉や教育は仕事をしたと言えるのかもしれません。
ハッティの研究から学べることは、最高の教育方法を一つ覚えることではありません。
むしろ、
「自分のやり方は、本当に相手の役に立っているだろうか」と問い続けること。
その姿勢そのものです。
大量の研究を積み上げた末に出てくるメッセージが、
「相手をちゃんと見ましょう」
なのだとしたら、少しおもしろいものです。
教育研究の巨大な山を登り切った先にあったのは、ものすごく難しい公式ではなく、
「で、相手には届いた?」
という、ずいぶん素朴な一言だったのです。

ジョン・アラン・クリントン・ハッティ(John Allan Clinton Hattie)の論文一覧
1.『フィードバックの力――その一言は、学びを伸ばすのか、それとも止めるのか』ジョン・アラン・クリントン・ハッティ、ヘレン・ステイプルトン・ティンパーリー(2007)
Hattie, J., & Timperley, H.(2007). The Power of Feedback. Review of Educational Research, 77(1), 81–112.
DOI:10.3102/003465430298487
「フィードバックは大事です!」――はい、そこまではみんな賛成。でもハッティとティンパーリーは、そこで腕組みします。「で、何をどう伝えれば効くんです?」。この論文が整理したのは、良いフィードバックとは単なる「よくできました!」ではなく、「どこを目指すのか」「今どこにいるのか」「次に何をするのか」を見えるようにするものだということ。しかも伝え方によっては、せっかくの助言が逆効果になることも。褒めれば伸びる、叱れば伸びる、そんな単純な話をいったん机から降ろして、「人が本当に伸びる言葉とは何か」を考え直したくなる一篇です。

