ご褒美でやる気は下がる?子どもの「好き」を弱めた心理学実験
- 「好きだからやる」に、ご褒美を足したらどうなる?
- この論文をひとことで言うと
- この論文の要点
- 研究の背景:「ご褒美をあげれば頑張る」は本当?子どものやる気をめぐる研究の始まり
- 研究方法:子どもに「描いたらご褒美」を約束したら?3つの条件で比べた実験
- この研究でわかったこと:ご褒美でやる気は下がった?子どものお絵描き実験で起きたこと
- ここが面白い:「ご褒美をもらった」より「ご褒美のためにやった」が重要だった
- 私たちの生活にどう活かせる?:ご褒美でやる気を下げないために、私たちができること
- 少し注意したい点:ご褒美は本当に逆効果?「子どものお絵描き実験」だけで言い切れないこと
- まとめ:ご褒美とやる気の関係から学べること。「好きだからやる」を大切に
- あとがき
- 制作ノート
「好きだからやる」に、ご褒美を足したらどうなる?
『ごほうびをあげると、『好き』が減る? 外的報酬が子どもの内発的な興味を弱める:『過剰正当化』仮説の検証』マーク・R・レッパー、デイヴィッド・グリーン、リチャード・E・ニスベット(1973)
Lepper, M. R., Greene, D., & Nisbett, R. E. (1973). Undermining children’s intrinsic interest with extrinsic reward: A test of the “overjustification” hypothesis. Journal of Personality and Social Psychology, 28(1), 129–137. DOI:10.1037/h0035519
「これができたら、ご褒美あげるよ」
子どものころ、一度くらいは言われたことがあるかもしれません。
宿題が終わったらお菓子。
テストでいい点を取ったらゲーム。
お手伝いをしたらお小遣い。
大人になってからも、形が変わっただけで似たような仕組みはあります。
「この仕事を頑張ればボーナスが出る」
「目標を達成したら評価が上がる」
「あと10回通ったらポイントが貯まる」
こうして考えてみると、私たちの暮らしはなかなかのご褒美社会です。
そして普通に考えれば、ご褒美があるほうがやる気は出そうですよね。
「これをやったらチョコレート!」
と言われれば、
「よし、やろう!」
となりそうです。
ところが心理学の世界には、ここでちょっと困った顔をしながら、
「うーん、ご褒美って、いつでも味方とは限らないんですよね」
と言ってくる研究があります。
それが、心理学者マーク・R・レッパー、デイヴィッド・グリーン、リチャード・E・ニスベットが1973年に発表した研究です。
彼らが注目したのは、もともと好きでやっていることに、ご褒美を加えたらどうなるのかという問題でした。
ここが、とても大切です。
嫌いなことを何とかやってもらうためのご褒美ではありません。
すでに本人が、
「これ楽しい」
「もっとやりたい」
と思っている活動です。
そこへ大人がやってきて、
「それをやったら、ご褒美をあげますよ」
と札を一枚ぶら下げる。
さて、その「好き」はどうなるのでしょう。
心の中で、理由がこっそり入れ替わる?
たとえば、絵を描くのが大好きな子がいたとします。
放っておいてもクレヨンを握り、
「今日は恐竜を描こう」
「いや、空飛ぶプリンも捨てがたい」
と、誰にも頼まれていないのに楽しそうに描いている。
そんな子に毎回、
「絵を描いたらシールをあげるよ」
と言い続けたらどうでしょう。
最初はもちろん、
「シールもらえる! やった!」
となるかもしれません。
ところが、いつの間にか心の中で、
「絵を描くのは楽しいから」
ではなく、
「絵を描くのはシールがもらえるから」
へと、行動の理由が少しずつ入れ替わる可能性があります。
そしてある日、シールがなくなる。
すると心の会計係が電卓を叩き始めます。
「えっと……今日は報酬なし?」
「では、この業務は終了ということで」
いやいや、昨日まで楽しそうに描いていたでしょう。
人間の心というのは、ときどきこういう妙な帳簿をつけます。
このように、外から与えられる報酬によって、もともと自分の内側にあった「やりたい」「楽しい」という気持ちが弱くなる現象は、のちにアンダーマイニング効果などの言葉でも語られるようになりました。
もちろん、「だからご褒美は全部やめましょう」という単純な話ではありません。
ご褒美には行動を促す力がありますし、条件によって結果も変わります。
大切なのは、
「ご褒美があるか、ないか」だけではなく、その人がもともと何を感じていたのか
という視点です。
楽しくて走っている人に、急に料金表を渡したら。
知りたくて勉強している人に、点数だけを突きつけたら。
好きで続けている仕事に、数字のノルマだけを置いたら。
「もっと頑張れるように」と足したはずのものが、ときには心のエンジンへ砂粒を落としてしまうことがある。
では、本当にそんなことが起こるのでしょうか。
レッパーたちは、子どもたちのお絵描きを使った実験で、この不思議な心の動きを確かめました。
ご褒美は、やる気を育てるのか。
それとも、ときどき「好きだからやる」という小さな炎を弱めてしまうのか。
ここから、1973年に行われた有名な実験をのぞいてみましょう。

この論文をひとことで言うと
「もともと好きでやっていたことでも、“ご褒美のためにやる”ようになると、あとでその『好き』が弱くなることがある」
この論文をひとことで言うなら、こうなります。
なんとも、ご褒美界にとっては少々耳の痛い研究です。
普通に考えると、
「好きなこと + ご褒美 = もっと好きになる」
となりそうですよね。
楽しいうえに何かもらえる。
こんなにお得な話はありません。
ところが、人間の心は足し算だけでは動いてくれません。
レッパーたちが注目したのは、もともと絵を描くことが好きだった子どもたちでした。
子どもたちは、誰かに「描きなさい」と命令されなくても、自分から絵を描いていました。
つまり心の中には、すでに立派な理由があります。
「だって、描くのが楽しいから」
これを心理学では、ざっくり言えば内発的な動機づけと呼びます。
難しそうな名前ですが、正体はかなり身近です。
「漫画を読みたいから読む」
「ギターが楽しいから弾く」
「知らないことが気になるから調べる」
つまり、
誰かにニンジンをぶら下げられなくても、自分から動きたくなる気持ち
です。
ところが実験では、そんな子どもたちの一部に、
「絵を描いたら、ご褒美がもらえますよ」
と、あらかじめ約束しました。
すると、その場ではちゃんと絵を描きます。
ここだけ見れば、
「ほら、ご褒美って効くじゃない」
となります。
ところが研究者が見たかったのは、そこではありません。
本番は、ご褒美が消えたあとです。
その後、好きに遊んでいい時間を設けて、
「さて、誰にも何ももらえない今、この子たちはどれくらい自分から絵を描くだろう?」
と観察しました。
すると、あらかじめご褒美を約束されていた子どもたちは、ご褒美を約束されなかった子どもたちより、あとで自発的にその絵を描く時間が少なくなりました。
ここが、この研究のいちばん面白いところです。
「やりたい」が「やればもらえる」に変わるとき
心の中で何が起きたのでしょう。
研究者たちが考えたのが、過剰正当化という考え方です。
たとえば最初は、
「絵を描いている。なぜ?」
「楽しいから」
だったとします。
そこへご褒美が登場すると、
「絵を描いている。なぜ?」
「ご褒美がもらえるからかな」
と、自分の行動の理由を外側に求めるようになることがあります。
本人の心の中に研究員が座って、
「行動理由を変更します。『好き』から『報酬』へ」
とハンコを押しているわけではありません。
もっと静かに起こります。
けれど、その理由の変化が起こると、ご褒美がなくなったとき、
「じゃあ、もういいかな」
となりやすくなる。
昨日まで遊びだったものが、いつの間にか仕事っぽく見えてくるわけです。
これは大人にも少し思い当たるところがあります。
趣味で文章を書いていたときは、
「今日は何を書こうかな」
と楽しかった。
ところが数字や評価ばかり気にし始めると、
「これは何PVになる?」
「反応が少ないなら書く意味ある?」
と、いつの間にか心の編集長が電卓ばかり叩き始める。
もちろん、報酬や評価が悪者なのではありません。
給料は必要ですし、ご褒美が行動を後押しする場面もたくさんあります。
この論文が教えてくれるのは、もっと繊細なことです。
すでに「好きだからやる」というエンジンが回っているところへ、外から別のエンジンを取りつけると、もとのエンジンの存在感が薄くなることがある。
だから、
「やる気を出してほしいから、ご褒美をあげよう」
という発想自体が間違いなのではなく、
「この人は、今どんな理由でそれをやっているんだろう?」
と一度考えてみることが大切なのです。
すでに目を輝かせてやっているなら、そこにはもう、立派な燃料があります。
その火に何かを足す前に、
「もしかして、もう十分燃えてる?」
と眺めてみる。
この論文は、ご褒美の研究であると同時に、人の“好き”を余計にいじりすぎないことの大切さを教えてくれる研究でもあるのです。

この論文の要点
1. ご褒美は、いつでも「やる気アップ装置」になるわけではない
ご褒美と聞くと、
「もらえるなら、もっと頑張れる!」
となりそうですよね。
ところがこの研究では、もともと絵を描くことが好きだった子どもに、あらかじめご褒美を約束すると、その後、ご褒美がない場面で自分から絵を描く時間が減りました。
つまり、ご褒美には行動を促す力がある一方で、使い方によっては「好きだからやる」という気持ちを弱めることもある。
ご褒美さん、万能アイテムかと思ったら、どうやら取扱説明書が必要だったようです。
2. 「好きだからやる」が「もらえるからやる」に変わることがある
この研究の中心にあるのが、過剰正当化という考え方です。
最初は、
「絵を描くのが楽しいから描く」
だったものが、ご褒美を約束されることで、
「ご褒美がもらえるから描いているのかも」
と、行動する理由が外側へ移ってしまうことがあります。
すると、ご褒美がなくなったとき、
「では本日の営業は終了です」
と、やる気まで店じまいしてしまうことがあるわけです。
大切なのは、行動そのものだけでなく、「なぜそれをしているのか」という本人の感じ方なのです。
3. やる気を育てたいなら、「足す」前に、すでにある「好き」を見る
この研究から日常生活に持ち帰りたいのは、
「どうすればもっとやらせられるか」だけでなく、「その人はすでに何を楽しんでいるのか」を見ること
です。
子どもの勉強でも、仕事でも、趣味でも同じです。
誰かが夢中になっていると、
「もっと伸ばしてあげよう」
「目標をつくろう」
「成果に応じてご褒美を出そう」
と、つい何かを足したくなります。
でも、その人の中ではすでに、
「面白い」
「もっと知りたい」
「上手になりたい」
という立派な燃料が燃えているかもしれません。
この論文は、そんなときに小さく耳打ちしてきます。
「その火、まだ薪を投げ込まなくても、ちゃんと燃えてますよ」
やる気を育てるとは、いつも何かを与えることではありません。
ときには、すでにそこにある「好き」を邪魔しないことも、立派な支え方なのです。

研究の背景:「ご褒美をあげれば頑張る」は本当?子どものやる気をめぐる研究の始まり
「頑張ったら、ご褒美をあげるよ」
この言葉、かなり強そうですよね。
子どもが宿題をしない。
片づけもしない。
でもシールやお菓子を見せた瞬間、
「やります!」
となる。
大人からすると、
「ほら、ご褒美って効くじゃない」
と思いたくなります。
実際、行動をその場で起こしてもらうという意味では、ご褒美にはかなりわかりやすい力があります。
ところが、1970年代の心理学者たちは、ここで少し妙なことに気づき始めていました。
問題は、
「その場でやるかどうか」だけ見ていて、本当にいいのだろうか?
ということです。
たとえば、子どもが絵を描くのが好きだったとします。
誰にも言われていないのに、自分からクレヨンを持つ。
時間があれば描く。
うまいとか下手とか関係なく、とにかく楽しそう。
そこへ大人がやってきて、
「描いたら賞状をあげるよ」
と言ったらどうなるのか。
おそらく、その場では描きます。
でも研究者たちが気になったのは、そのあとでした。
賞状がなくなったときも、その子は前と同じように描きたがるのか。
ここが、まだよくわかっていなかったのです。
「行動が増えた」と「好きになった」は、同じなのか
当時の心理学では、報酬によって行動を増やす考え方が大きな影響力を持っていました。
何かをしたら褒める。
できたら報酬を与える。
すると、その行動は起こりやすくなる。
これはとても理解しやすい仕組みです。
犬がお手をしたらおやつ。
「なるほど、学習した」
となります。
ただ、人間には少々ややこしい機能がついています。
「自分はなぜこれをやっているんだろう?」
と、意味を考える心です。
ここが話を複雑にします。
たとえば、
「本を読むのが好きだから読んでいる」
と思っていた人に、毎回100円を渡したとします。
最初は、
「好きな本も読めるし、100円ももらえる。最高」
となるかもしれません。
ところが、そのうち、
「自分は100円のために読んでいるのかな」
という理解に変わる可能性があります。
そして100円がなくなったとき、
「では読書も本日は休業で」
となる。
もし本当にそんなことが起こるなら、かなり重要です。
なぜなら教育でも子育てでも仕事でも、
「やってほしいから報酬を与える」
という方法は、とてもよく使われるからです。
でも、その人がすでに楽しんでいることにまで報酬をつけたら、どうなるのでしょう。
行動は増えるけれど、好きではなくなる。
そんな、ちょっと困った逆転現象が起こる可能性が出てきます。
ご褒美は「追加の燃料」なのか、それとも理由の書き換えなのか
そこでレッパー、グリーン、ニスベットが注目したのが、過剰正当化という考え方でした。
少し難しい名前ですが、考えていることはわりと身近です。
人は自分の行動を見て、
「なぜ自分はこれをやっているのか」
を考えます。
もし明らかな外的理由があると、
「自分がやっているのは、これが楽しいからではなく、ご褒美があるからなのかもしれない」
と判断することがある。
つまりご褒美が、
「やる理由を一個追加する」
だけではなく、
「自分がやっている理由そのものを、外側へ書き換えてしまうかもしれない」
というわけです。
これは当時としては、かなり面白い問いでした。
「報酬を出せば行動は増える」
というだけではなく、
「報酬を出したあと、その人の心の中に何が残るのか」
まで見ようとしたからです。
そこで研究者たちは、子どもたちのお絵描きを見た
この疑問を確かめるために、研究者たちはもともと絵を描くことに興味を持っている子どもたちを対象にしました。
最初から嫌がっている活動ではありません。
ここが、この研究ではとても重要です。
嫌いなことにご褒美をつけて、
「少しやるようになりました」
という研究ではない。
すでに、
「楽しいからやっている」
という気持ちがあるところへ、ご褒美を持ち込んだのです。
そして研究者たちは、
「ご褒美があるときに描くか」
だけではなく、
「ご褒美がなくなったあと、自分からどれくらい描くのか」
を観察しました。
この視点が、この論文を有名にしました。
人を動かす方法を調べるだけではなく、
人が自分から動きたくなる気持ちを、外からの働きかけがどう変えるのか
を見ようとしたのです。
ここから先は、いよいよ実験です。
「好きだから描く」子どもに、ご褒美を約束したら何が起こるのか。
心理学者たちは、心の中に直接カメラを入れることはできません。
そこで、子どもたちの行動をじっくり観察することにしたのです。

研究方法:子どもに「描いたらご褒美」を約束したら?3つの条件で比べた実験
では、実際にどんな実験をしたのでしょうか。
舞台は保育園です。
研究者たちはまず、子どもたちが普段どんな遊びをしているのかを観察しました。
ここで大事なのは、いきなり全員を集めて、
「はい、本日はお絵描きの実験をします!」
と始めたわけではないことです。
研究対象になったのは、もともと特殊なカラーペンを使ったお絵描きを自分から楽しんでいた3〜5歳の子どもたちでした。
つまり、
「別に絵なんて描きたくないんですけど」
という子を、ご褒美で無理やり机に座らせた研究ではありません。
最初から、
「このペン、おもしろい!」
「描きたい!」
という気持ちを持っていた子どもたちを選んだのです。
最終的に分析されたのは51人でした。
ここから研究者たちは、子どもたちを3つのグループに分けました。
1.「描いたらご褒美がもらえるよ」グループ
最初のグループは、絵を描く前に、
「描いてくれたら、ご褒美をあげるよ」
と伝えられます。
ご褒美として使われたのは、金色の星と赤いリボンが描かれた「Good Player Award」という賞状のようなカードでした。
子どもからすれば、
「お絵描きしたら、なんか立派なのがもらえるらしい」
という状態です。
これが予告された報酬のグループです。
2.「え、ご褒美あるの?」グループ
2つ目のグループには、ご褒美の話をしません。
普通に、
「絵を描いてくれる?」
と頼みます。
ところが描き終わったあと、
「よくできました。実はこれをあげます」
と、突然ご褒美が登場します。
子どもからすれば、
「聞いてないけど、もらえるならいただきます」
です。
これが予告なしで報酬をもらうグループです。
3.「普通にお絵描きします」グループ
最後は、ご褒美について何も言われず、実際にもご褒美をもらわないグループです。
絵を描く。
以上。
非常に潔い。
「今日のお絵描きにポイント制度はありません」という通常営業です。
研究者たちは、この3つの条件を比べることで、
ご褒美そのものが影響するのか、それとも「ご褒美をもらうためにやる」という意識が影響するのか
を見ようとしました。
ここが、この実験のうまいところです。
単純に、
「ご褒美あり vs ご褒美なし」
ではありません。
突然ご褒美をもらうグループまで用意することで、
“もらったこと”と、“もらうためにやったこと”を分けて考えられる
ようにしたのです。
本当に見たかったのは、ご褒美がなくなった「その後」
子どもたちは実験室で約6分間、絵を描きました。
でも、この6分間が本番ではありません。
研究者たちが本当に知りたかったのは、
ご褒美がない状態に戻ったあとも、その子が自分から絵を描くのか
ということでした。
そこで実験からしばらくたったあと、子どもたちが普段過ごしている教室で自由に遊んでいる様子を観察します。
「絵を描きなさい」とは言いません。
賞状もありません。
誰かが横から、
「あと3枚描いたらボーナスです!」
とも言いません。
ただ自由に遊べる時間の中で、例のお絵描き道具をどのくらい自分から選ぶのかを見る。
つまり研究者たちは、
「好きですか?」と質問する代わりに、「誰にも頼まれていないとき、どれくらい自分からやるか」を測った
わけです。
しかも、実験後の観察はおよそ7〜14日後から行われました。
この時間差も重要です。
その場で、
「賞状もらった!うれしい!」
となったかどうかではなく、
数日後、ご褒美の気配が消えた教室で、
「それでもまだ描きたい?」
を見たのです。
なかなか静かな実験です。
大がかりな機械もありません。
脳をスキャンするわけでもありません。
やったことは、
もともと絵が好きな子どもたちに、ご褒美の与え方を変えて絵を描いてもらい、その後の自由時間を観察する。
ほぼこれだけです。
でも、このシンプルな仕掛けから、
「ご褒美をあげれば、やる気は増える」
という私たちの素朴な常識に、かなり面白いヒビが入ることになります。
さて、ご褒美を約束された子どもたちは、その後も楽しそうに絵を描いたのでしょうか。
ここからが、この研究のいちばん有名なところです。

この研究でわかったこと:ご褒美でやる気は下がった?子どものお絵描き実験で起きたこと
さて、いよいよ結果です。
結論から言うと、研究者たちがいちばん注目していたところで、はっきりした違いが出ました。
あらかじめ「絵を描いたらご褒美がもらえる」と約束されていた子どもたちは、その後、ご褒美のない自由時間に自分から絵を描く割合が低くなったのです。
ここが、この研究のいちばん有名な結果です。
つまり、
「ご褒美があるから描く」
という経験をしたあとでは、
「何ももらえないけど、描きたいから描く」
という行動が少なくなった。
なんとも不思議です。
普通なら、
「好きなことにご褒美までついたんだから、ますます好きになるのでは?」
と思いますよね。
好きなカレーにトッピングでチーズまで乗ったら、普通はご機嫌になるはずです。
ところが心の世界では、どうも足し算がそのまま足し算にならないことがあるようです。
意外だったのは「ご褒美そのもの」が悪かったわけではないこと
この研究でとくに面白いのは、単に
「ご褒美をもらった子は、みんなやる気が下がった」
という結果ではなかったことです。
思い出してみてください。
子どもたちは3つのグループに分かれていました。
ひとつは、
「描いたらご褒美をあげるよ」
と、最初から約束されていたグループ。
もうひとつは、ご褒美の話をされず、描き終わったあとで突然ご褒美をもらったグループ。
そして、ご褒美なしのグループです。
その後の自由時間で自発的なお絵描きが減ったのは、主に**「ご褒美をもらうために描いた」グループ**でした。
ここが重要です。
もしご褒美そのものが悪いのであれば、予告なしでご褒美をもらった子どもたちも同じように興味を失ってよさそうです。
でも、そう単純ではありませんでした。
つまり研究者たちが注目したのは、
何をもらったかよりも、「何のためにやったと本人が感じたか」
だったのです。
これはかなり面白い話です。
「報酬あり」という同じ出来事でも、
「楽しく描いていたら、あとでたまたま賞状をもらった」
のと、
「賞状をもらうために描いた」
のでは、心の中での意味が違うかもしれない。
外から見ればどちらも、
「絵を描いた。賞状をもらった」
です。
でも心の中では、
「好きだからやった」
と
「もらうためにやった」
で、話が変わってくる。
心理学、なかなか帳簿の細かい世界です。
「やる気がなくなった」というより、「理由が変わった」と考える
ここで少し注意したいのは、
「ご褒美をもらったら、子どものやる気が壊れた!」
という話ではないことです。
研究者たちが考えたのは、もっと静かな変化でした。
最初は、
「絵を描くのが楽しいから描いている」
と思っていた子どもが、ご褒美を約束されたことで、
「自分はご褒美のために描いているのかな」
と、自分の行動の理由を別のところに感じるようになる。
すると、ご褒美がなくなったときに、
「じゃあ、今はそこまで描かなくてもいいか」
となる。
つまり、
やる気そのものがゼロになったというより、“やる理由”が外側へ少し移った
と考えるとわかりやすいです。
これは、過剰正当化仮説と呼ばれる考え方につながります。
人間は、
「自分がなぜこんなことをしているのか」
を、意外と周囲の状況から判断しています。
「毎回お金をもらっている」
「賞状をもらえる」
「褒められる」
そんな外側の理由が目立つと、
もともと自分の中にあった
「好きだから」
「面白いから」
「もっとやりたいから」
という理由が、少し見えにくくなることがあるのです。
いちばん意外なのは、「やらせること」と「好きでいてもらうこと」は同じではないこと
この研究の結果で、いちばん意外なのはここだと思います。
その場で行動してもらうことと、その行動を好きでいてもらうことは、同じではない。
ご褒美を出せば、その瞬間には動いてもらえるかもしれません。
「これをやったらシールね」
「この仕事を終えたらボーナスね」
「目標を達成したら賞品ね」
たしかに行動は起こりやすくなる。
でも、
「その人が、あとでも自分からやりたいと思うか」
は別問題です。
ここを混ぜてしまうと、
「ほら、ちゃんとやった。ご褒美作戦は成功!」
と判断してしまいます。
でも本当は、そのあとを見る必要がある。
ご褒美がなくなった日にも、まだやるのか。
誰も見ていないところでも、まだ続けるのか。
評価されなくても、
「やっぱりこれ、好きだな」
と思えるのか。
この研究は、そこまで見たのです。
ご褒美は悪者ではない。でも、万能でもない
だから、この研究から、
「ご褒美なんて一切使ってはいけない」
と結論づけるのは早すぎます。
この実験で扱われたのは、もともとその活動に強い興味を持っていた幼い子どもたちです。
活動の種類、ご褒美の内容、与え方、タイミングによっても結果は変わりえます。
それでも、この研究が長く語り継がれてきたのは、
「やる気を高めたいなら、とにかく報酬を足せばいい」
という考え方に、待ったをかけたからでしょう。
人はボタンを押せば動く機械ではありません。
「なぜ自分はこれをやっているのか」
という意味まで含めて動いています。
だから、誰かがすでに夢中になっているなら、
「もっとやってもらうために、何を与えよう?」
と考える前に、
「この人はいま、何が楽しくて続けているんだろう?」
と考えてみる。
もしかすると、その「好き」という気持ちは、こちらが思っている以上に繊細です。
ご褒美を追加しなくても、すでにちゃんと動いている。
そんな心のエンジンもあるのです。

ここが面白い:「ご褒美をもらった」より「ご褒美のためにやった」が重要だった
この研究の面白さは、単に、
「ご褒美をあげると、やる気が下がることがあります」
というところではありません。
それだけなら、
「じゃあ、ご褒美は全部やめたほうがいいのね」
で話が終わってしまいます。
でも、この研究はそんな単純な話ではありません。
もっと面白いのは、
「ご褒美をもらったこと」よりも、「ご褒美のためにやったこと」のほうが重要だった
というところです。
ここ、なかなか人間くさいんです。
同じ賞状をもらっても、心の受け取り方は違う
実験では、絵を描いたあとに突然ご褒美をもらった子どもたちもいました。
この子たちは、最初から賞状目当てで描いたわけではありません。
気分としては、
「普通に絵を描いていたら、なんか賞状までもらった」
です。
ちょっとした棚からぼたもちです。
一方、最初から、
「描いたら賞状をあげますよ」
と言われた子どもたちは、
「賞状をもらうために描く」
という構図になります。
外から見れば、どちらも同じです。
絵を描いた。
賞状をもらった。
以上。
でも、人の心の中では同じではありません。
片方は、
「楽しく描いていたら、ご褒美までついてきた」
もう片方は、
「ご褒美をもらうために描いた」
です。
この違いが、その後の行動に影響した可能性がある。
ここが、この研究の妙味です。
人間は「何をしたか」だけでなく、「なぜしたか」で生きている
考えてみると、これは大人でもあります。
たとえば、友人の引っ越しを手伝ったとします。
最初は、
「困ってるなら手伝うよ」
という気持ちだった。
終わったあと、
「ありがとう」
と夕食をごちそうしてもらった。
これはうれしい。
「いやあ、悪いねえ」
と言いながら、たぶん普通に食べます。
ところが最初から、
「引っ越しを手伝ったら5000円払うよ」
と言われていたら、同じ段ボールを運んでいても、少し意味が変わります。
途中で腰が痛くなったとき、
「友だちだから手伝っている」
ではなく、
「これは5000円案件です」
という感じになる。
行動は同じでも、物語が違うのです。
人は、自分のしていることに、知らず知らず理由をつけています。
「好きだから」
「大切だから」
「楽しいから」
「役に立ちたいから」
「お金になるから」
「褒められるから」
どれも行動の理由です。
そして、その理由がどこにあるかによって、同じ行動でも心の温度が変わってきます。
「好き」に値札がつく瞬間
個人的に、この研究を読んでいていちばん面白いのは、
人は、好きなことに値札がついた瞬間、その意味まで少し変えてしまうことがある
という点です。
たとえば、趣味で写真を撮っているとします。
休日に、
「今日は夕焼けがきれいだから撮りに行こう」
とカメラを持って出かける。
これは完全に自分の楽しみです。
ところが、ある日から、
「写真を投稿して、毎回1000いいねを取ろう」
となる。
すると、
「この景色、好きだな」
より、
「これは伸びるかな」
が頭に入ってくる。
さらに広告収益がついたら、
「この写真はいくらになるかな」
まで登場する。
もちろん、それ自体が悪いわけではありません。
仕事になるのは素晴らしいことです。
ただ、心の中で、
「好きだからやる」と「評価されるからやる」の割合が変わる
ことはある。
すると、数字が伸びなかった日に、
「あれ、写真ってこんなに疲れるものだったっけ」
となるかもしれません。
好きだったものが壊れたわけではありません。
ただ、その上に評価や報酬が積み重なって、もとの「好き」が少し見えにくくなった。
この研究は、そんな心の現象を50年以上前に子どものお絵描きでのぞいていたわけです。
やる気は「量」だけではなく「質」もある
私たちは、やる気をつい一本のメーターのように考えます。
やる気0。
やる気50。
やる気100。
「今日はやる気120%!」
そんな感じです。
でも、この研究を見ると、やる気には種類もあることがわかります。
「やらされているからやる」
「得をするからやる」
「褒められたいからやる」
「面白いからやる」
「大切だと思うからやる」
どれも人を動かします。
でも、その動き方は同じではありません。
外から見れば、一生懸命勉強している二人でも、
一人は、
「知るのが面白い」
もう一人は、
「怒られたくない」
かもしれない。
手は同じように動いていても、心のエンジンは別物です。
だから、
「ちゃんとやっているから問題ない」
だけでは、その人のやる気を全部見たことにはならない。
この研究は、
行動の量だけを見るのではなく、その行動を生み出している理由にも目を向けよう
と教えてくれます。
「どうやってやらせる?」の前に、「なぜやっている?」を見る
教育でも、仕事でも、子育てでも、私たちはつい、
「どうすればもっとやってもらえるだろう」
と考えます。
目標を設定しよう。
ポイントをつけよう。
賞をつくろう。
評価制度を入れよう。
これはこれで必要なこともあります。
ただ、その前に一度だけ、
「この人は今、なぜこれをやっているんだろう?」
と考えてみる。
もしすでに、
「面白いから」
「好きだから」
「上手くなりたいから」
と動いているなら、そこにはすでにかなり強いエネルギーがあります。
人間、珍しく自家発電している最中です。
そこへ、
「もっと動かすために燃料を足そう!」
と外からホースを突っ込んだ結果、自家発電装置のほうが静かになったら、少しもったいない。
もちろん現実は、この実験ほど単純ではありません。
報酬が役立つ場面もありますし、褒めることや評価することが悪いわけでもありません。
それでも、この研究はひとつの面白い視点を残してくれます。
人を動かすことと、その人が自分から動きたくなることは、似ているようで別の話。
「やってくれたから成功」ではなく、
「そのあとも、自分からやりたいと思えているか」
まで見てみる。
そこまで考えると、ご褒美というものが、ただのニンジンではなくなります。
とても便利だけれど、少し繊細な道具です。
そして何より、人の「好き」という気持ちは、ときどきこちらが思っているより静かです。
大声で、
「もっと頑張れ!」
と応援しなくても、
評価表を置かなくても、
賞状を用意しなくても、
本人の中でちゃんと燃えていることがある。
そんなときは、
何かを足すことより、その火が燃える余白を残しておく。
この研究の面白さは、そこまで想像させてくれるところにあるのだと思います。

私たちの生活にどう活かせる?:ご褒美でやる気を下げないために、私たちができること
この研究を読むと、ついこう思ってしまいます。
「じゃあ、ご褒美は使わないほうがいいの?」
でも、そこまで単純な話ではありません。
ご褒美は、ときに行動を始めるきっかけになります。
面倒なことを終わらせる助けにもなります。
仕事なら報酬は必要ですし、子どもだって褒められたらうれしい。
問題は、
「ご褒美があること」ではなく、「ご褒美だけがやる理由になってしまうこと」
なのかもしれません。
この研究を日常生活に持ち帰るなら、大事なのは「報酬をやめる」ことではなく、その人の中にすでにある“やりたい”を見失わないことです。
まず、「もう燃えている火」に気づく
たとえば、子どもが絵を描いているとします。
夢中になっている。
時間を忘れている。
誰にも言われていないのに、次から次へと描いている。
こんなとき、大人はつい、
「上手だね」
「もっと描いたら賞をあげようか」
「10枚描けたらご褒美ね」
と、何かを足したくなります。
善意です。
むしろ、かなり善意です。
でも、ここで一度だけ考えてみる。
「この子、もう十分やる気があるんじゃない?」
すでに走っている人の背中に、さらにモーターを取りつけなくてもいいことがあります。
本人の中で「楽しい」が動いているなら、まずはその状態を壊さないこと。
これは子どもだけではありません。
部下が仕事の改善を楽しんでいる。
家族が料理に凝っている。
友人が趣味で文章を書いている。
自分が誰に言われるでもなく勉強している。
そんなときに、成果や数字ばかりを前面に出すと、
「これって、結果を出すためにやるものだったっけ」
と、心の景色が変わることがあります。
だから最初の一歩は、意外と地味です。
“足す前に、すでにあるものを見る。”
これだけです。
「できたらご褒美」より、「楽しんでたね」と返す
人を励ますとき、結果にばかり注目すると、どうしても評価の話になりやすいです。
「100点だったね」
「1位だったね」
「売上目標を達成したね」
もちろん、結果を喜ぶのは悪くありません。
でも、ときには結果ではなく、
「ずっと集中してたね」
「工夫してたね」
「楽しそうだったね」
「前よりできることが増えたね」
と返してみる。
すると、本人の中にある、
「自分はこれが好き」
「やっている時間そのものが面白い」
という感覚を守りやすくなります。
外から評価を貼るというより、本人が感じているものをそっと映す感じです。
鏡ですね。
でっかい金メダルを首から下げるというより、
「今、いい顔してたよ」
と教える。
このくらいの距離感が、ちょうどいいこともあります。
面倒なことには、ご褒美を使ってもいい
ここは誤解しないでほしいところです。
すべての活動に、最初から内発的なやる気があるわけではありません。
「歯みがき最高!」
「税金の書類を書くのが生きがいです!」
「毎朝のゴミ出し、胸が高鳴ります!」
という人は、かなり希少です。
世の中には、
「必要だけど、別に好きではない」
ということがたくさんあります。
そういう場面では、ご褒美や仕組みが役に立つことがあります。
「終わったらコーヒー飲もう」
「ここまで片づけたら動画を見よう」
「今週を乗り切ったら好きなものを食べよう」
これは普通に使っていい。
むしろ、人間はそんなに毎日、内なる情熱だけでは動けません。
大事なのは、すでに好きでやっているものにまで、何でもかんでも報酬をつけないことです。
ここを分けて考えると、この研究はずっと実用的になります。
仕事では「報酬」より「意味」も残しておく
社会人にとって、この研究は仕事でもかなり刺さります。
給料。
評価。
昇進。
ボーナス。
これらは当然必要です。
「やりがいがあれば無給でもいいよね」
なんて話ではありません。
それは全然別です。
でも、仕事を数字だけで管理すると、
「何のためにやっているのか」
が見えにくくなることがあります。
たとえば最初は、
「利用者さんの役に立ちたい」
「この仕事を少しでも良くしたい」
「自分の技術を磨きたい」
と思っていたのに、毎月、
「件数は?」
「達成率は?」
「評価は?」
ばかりになると、
心の中で、
「結局、数字のためにやってるんだっけ」
という感覚が強くなることがある。
だから職場では、報酬や評価をなくすのではなく、仕事の意味や手応えが見える余白も残すことが大切です。
「今日は何件できたか」だけでなく、
「誰かにどんな変化があったか」
「自分は何を工夫できたか」
「どこが前よりうまくなったか」
を見る。
人は数字でも動きますが、意味でも動きます。
両方必要です。
自分自身にも「報酬の罠」はある
これは他人に対してだけではありません。
自分にも起こります。
たとえば、趣味でブログを書いていたとします。
最初は、
「書くのが楽しい」
「考えを言葉にするのが好き」
だった。
ところがアクセス数を見始める。
収益を見る。
反応を見る。
すると、少しずつ、
「何PV取れた?」
「伸びた?」
「稼げた?」
が気になってくる。
もちろん、数字を見ること自体は悪くありません。
でも、数字だけになると、もともとの「好き」が見えにくくなることがあります。
そんなときは、ときどき、
「これ、数字がゼロでも少しはやりたい?」
と自分に聞いてみる。
答えが「うん」なら、そこにはまだ内側の火があります。
逆に、
「もう数字がないと無理」
となっていたら、少し休むか、やり方を変えてもいい。
自分のやる気も、他人のやる気と同じで、乱暴に扱わないほうが長持ちします。
「どうやって動かすか」より、「何で動いているか」を見る
この研究を生活に活かすなら、最後にここへ戻ってきます。
私たちはつい、
「どうすればこの人は動く?」
と考えます。
でも、その前に、
「この人は今、何で動いている?」
と見る。
好きだから。
興味があるから。
役に立ちたいから。
上手くなりたいから。
認められたいから。
お金のため。
怒られたくないから。
人によって違います。
そして同じ人でも、日によって変わります。
だから、やる気は操作するものというより、観察するものなのかもしれません。
無理に引っぱるより、何がその人を前へ進ませているのかを見る。
そのうえで、必要ならご褒美を使う。
必要なら評価する。
でも、すでにある「好き」を全部、外からの報酬に置き換えない。
これくらいがちょうどいい。
ご褒美は、やる気の魔法の杖ではありません。
でも、悪役でもありません。
便利な道具です。
ただし使う前に、
「ここにはもう、自分で動いている心があるかもしれない」
と気づいておく。
それだけで、人への関わり方はずいぶん変わると思います。

少し注意したい点:ご褒美は本当に逆効果?「子どものお絵描き実験」だけで言い切れないこと
ここまで読むと、
「なるほど、ご褒美はやる気を下げるのか。では今日から全面禁止で」
と、家中のシールとポイントカードを回収したくなるかもしれません。
でも、そこまで走るのは少し早いです。
この研究はとても面白い。
そして、心理学史に残るほど重要です。
ただし、
「ご褒美をあげると、人間のやる気は下がる」
と一般化するには、かなり大きなジャンプがあります。
研究結果は、スポットライトのようなものです。
照らした場所についてはよく見える。
でも、その光が地球の裏側まで照らしているわけではありません。
この研究が実際に確かめた範囲を、もう一度丁寧に見てみましょう。
まず、研究対象は「もともと絵が好きな幼い子ども」だった
この実験で対象になったのは、3〜5歳ほどの幼児です。
しかも、誰でも参加したわけではありません。
研究者たちはまず普段の様子を観察して、もともとお絵描きに興味を示していた子どもたちを選んでいます。
ここが非常に重要です。
この研究が示しているのは、
「嫌いなことにご褒美をつけたらどうなるか」
ではありません。
すでに、
「これ好き」
「これ楽しい」
という気持ちがある活動に対して、ご褒美を約束したらどうなるか。
そこを調べています。
だから、
「勉強が嫌いな子に、ご褒美を使ってはいけない」
「掃除を嫌がる人にも報酬を出してはいけない」
とまでは、この研究だけでは言えません。
そもそも最初から内発的な興味がほとんどない活動では、話が変わる可能性があります。
ここを混ぜてしまうと、
「お絵描きの研究から、家事も勉強も仕事も全部禁止令」
という、なかなか豪快な心理学になってしまいます。
「ご褒美」も一種類ではない
もうひとつ大事なのは、ご褒美の種類です。
この研究では、賞状のような外的な報酬が使われました。
でも、現実のご褒美にはいろいろあります。
お金。
シール。
お菓子。
褒め言葉。
特別な体験。
「ありがとう」という感謝。
自由時間。
ボーナス。
全部ひっくるめて「報酬」と呼ぶことはできますが、本人が受け取る意味はかなり違います。
さらに、
「やったら必ずもらえるよ」
と事前に約束されるのか、
「よく頑張ったね」
とあとから渡されるのかでも違います。
この研究でも、そこに差がありました。
ですから、
「ご褒美という物体が、やる気を吸い取る」
と考えるのは少し違います。
ご褒美さんが夜中に忍び込んで、やる気タンクからチューチュー吸っているわけではありません。
重要なのは、
その報酬が、本人にとってどんな意味を持ったのか
です。
「楽しかったうえに褒めてもらえた」
なのか、
「褒めてもらうためにやった」
なのか。
外から見れば似ていますが、心の中では別の物語になりえます。
「やる気が下がった」の測り方にも注意しよう
この研究では、子どもに、
「あなたの内発的動機づけは現在73点ですか?」
などと質問したわけではありません。
3歳児にそんなことを聞いたら、
「知らんがな」
で終了です。
そこで研究者たちは、その後の自由時間に、自分からどれくらいお絵描きをしたかを見ました。
これはかなり合理的な方法です。
誰にも言われていないのに選ぶなら、その活動への興味が残っていると考えやすい。
ただし、
「絵を描く時間が減った」
ことと、
「心の中の好きという感情が完全に消えた」
ことは、まったく同じではありません。
心理学では、心そのものを直接取り出して測ることはできません。
行動を手がかりにして、
「おそらく、こういう心理状態があるのでは」
と推測します。
だから、
この研究では“自発的にその活動を選ぶ行動が減った”
と理解しておくと、より正確です。
「好きが消滅した!」
まで言うと、ちょっとドラマの音楽が大きすぎます。
51人の子どもから「人間全体」を語ることはできない
この研究で最終的に分析された子どもは51人でした。
心理学実験として価値のある研究ですが、
51人の幼児から、
「全人類はこうです」
とは言えません。
大人はどうなのか。
中学生ならどうなのか。
仕事ならどうなのか。
スポーツならどうなのか。
創作活動ならどうなのか。
長い期間でも同じことが起きるのか。
そこまでは、この一つの研究ではわかりません。
これは研究の欠点というより、科学というものの普通の姿です。
一つの研究が世界のすべてを説明するのではありません。
ひとつ穴を掘って、
「ここにはこんな地層がありました」
と報告する。
別の研究者が違う場所を掘る。
また別の研究者が確かめる。
そうやって、少しずつ地図ができていきます。
1973年のこの論文は、その地図にかなり重要な印をつけた研究だった。
そのくらいに受け取るのがちょうどよいでしょう。
「だから褒めないほうがいい」にも注意
この研究から、
「評価するとやる気が下がる」
「褒めるのも危険だ」
とまで広げるのも慎重でありたいところです。
人は、褒められることで、
「自分は上達している」
「ちゃんと見てもらえている」
と感じることもあります。
外からの反応が、自信や安心につながる場面もあるでしょう。
だから、
「報酬は悪」
「褒めないのが正解」
という二択にすると、心理学から一気に宗派っぽくなってしまいます。
この論文が問いかけているのは、もっと柔らかなことです。
「その働きかけによって、本人は何のためにやっていると感じるようになるだろう?」
ここを見る。
褒めるにしても、
「1位だから偉い」
だけでなく、
「工夫してたね」
「ずいぶん集中してたね」
「自分で考えてやってたね」
と、本人の経験に戻してあげる方法もあります。
ご褒美を使うにしても、
「これがないとやらない」
という状態だけを作らないようにする。
大切なのは、禁止ではなく使い方を見ることです。
この研究から持ち帰るなら、「ご褒美禁止令」ではなく小さな問い
この研究を読んで、私たちが持って帰るものは、
「ご褒美禁止」
と書かれた赤い看板ではないと思います。
もっと小さな問いです。
誰かに何かをしてほしくなったとき、
「この人は、今もう自分から楽しんでいないだろうか?」
と考える。
そして、
「ここに報酬を足したら、この人にとって行動の意味はどう変わるだろう?」
と、一度だけ立ち止まってみる。
それで十分です。
研究というのは、生活の正解集ではありません。
「このボタンを押せば人生がうまくいきます」
という説明書でもありません。
むしろ、
「今まで当たり前だと思っていたこと、本当にそうかな?」
と考えるための、小さな懐中電灯みたいなものです。
レッパーたちの研究も同じです。
ご褒美を悪者にするための研究ではありません。
人のやる気は、外から見える行動だけではわからない。
その人が『なぜ自分はこれをしているのか』と感じている理由まで、大切なのかもしれない。
そこまで受け取れたなら、この古いお絵描き実験から持ち帰るものとしては、かなり十分なのではないでしょうか。

まとめ:ご褒美とやる気の関係から学べること。「好きだからやる」を大切に
ここまで見てきた研究を、最後にぎゅっとまとめてみましょう。
レッパー、グリーン、ニスベットの1973年の実験が教えてくれたのは、かなりシンプルです。
人は、ご褒美があれば必ずやる気が高まるわけではない。
とくに、もともと「楽しい」「好き」と感じていたことに対して、あらかじめご褒美を約束すると、その後の自発的な興味が弱まることがある。
これが、この研究の中心でした。
いわば、
「好きだからやる」
という心のエンジンに、
「もらえるからやる」
という別のエンジンを取りつけたら、元のエンジンの音が少し小さくなった。
そんな感じです。
もちろん、だからといって、
「ご褒美は禁止です」
となるわけではありません。
そこは大事です。
ご褒美は便利です。
面倒なことを始めるきっかけになることもありますし、努力を認める形としてうれしいこともあります。
問題は、
ご褒美そのものではなく、その人が“何のためにやっていると感じるか”
なのです。
「やらせる」と「やりたくなる」は、似ているようで違う
この研究を読むと、私たちはつい、
「どうすればこの人を動かせるか」
と考えすぎていることに気づきます。
子どもなら、
「どうしたら勉強する?」
部下なら、
「どうしたらもっと働く?」
自分なら、
「どうしたら続けられる?」
そこで、
ポイント。
賞。
ボーナス。
ご褒美。
評価。
いろいろ足したくなる。
でも、行動を起こすことと、その行動を好きになることは別です。
その場では動いてもらえたとしても、
ご褒美がなくなったあと、
評価されなくなったあと、
誰も見ていないところで、
それでも自分からやりたいと思えるか。
そこまで見ないと、本当の意味で「やる気が育った」とは言えないのかもしれません。
人の心には、もう燃料が入っていることがある
この研究で個人的にいちばん大切だと思うのは、
私たちは、人にやる気を“与える”ことばかり考えなくてもいい
ということです。
その人の中には、もう何かがあるかもしれない。
好き。
興味。
好奇心。
誇り。
達成感。
役に立ちたい気持ち。
上手になりたい気持ち。
そういうものが、静かにその人を動かしている。
それを見ずに、
「もっとやる気を出してもらおう」
と外から燃料を足し続けると、
「いや、もう自分で走ってたんですけど」
ということが起こる。
人の心、なかなか繊細です。
ハイブリッド車より制御が難しい。
でも逆に言えば、全部こちらで操作しなくていいということでもあります。
ご褒美より先に、観察する
もしこの論文から、今日ひとつだけ生活に持ち帰るなら、
「ご褒美を出す前に、その人が何で動いているかを見る」
これで十分だと思います。
子どもが夢中になっているなら、
「もっとやらせよう」
ではなく、
「何がそんなに面白いんだろう」
と見る。
自分が何かを続けているなら、
「もっと成果を出さなきゃ」
だけではなく、
「そもそも私は何が好きで始めたんだっけ」
と振り返る。
仕事でも、
「数字を伸ばそう」
だけではなく、
「この仕事のどこに意味を感じていたんだろう」
と考える。
そうすると、やる気は少し違って見えてきます。
外から注入するものではなく、
本人の中ですでに動いているものを見つけること。
これが、長く続くやる気を考えるうえで大事なのかもしれません。
ご褒美は悪役ではない。でも「好き」はもっと繊細
この研究は、ご褒美を悪者にする研究ではありません。
むしろ、
「人間のやる気って、そんなに単純じゃないよ」
と教えてくれる研究です。
お金も必要です。
評価も必要です。
褒められたらうれしい。
でも、それだけで人は動いているわけではない。
誰にも言われなくてもやりたい。
結果が出なくても続けたい。
うまく説明できないけど好き。
そういう気持ちも、立派な行動の理由です。
そして、その理由は、ときどき外から見えにくい。
だからこそ、
「何を与えれば動くか」
ばかり考えるのではなく、
「何も与えなくても、この人が動いている理由は何だろう」
と考えてみる。
たぶん、それがこの研究のいちばんやさしい使い方です。
ご褒美はあとからでも足せます。
でも、もともとそこにあった「好き」は、見失うと少し探しにくい。
だからまずは、消さないこと。
守りすぎる必要もありません。
ただ、あることに気づく。
それくらいでいい。
1973年の子どもたちのお絵描き実験は、そんな小さなことを、今の私たちにも静かに教えてくれているのだと思います。

あとがき
この論文を読んで、いちばん心に残ったのは、
「人って、そんなに単純には動かないんだな」
ということでした。
ご褒美をあげる。
褒める。
評価する。
ボーナスを出す。
普通に考えれば、どれも「やる気を高めるための良いもの」に見えます。
でも、人の心は自動販売機ではありません。
100円入れたら、やる気がガコンと出てくる。
そんな仕様なら、人生はもう少し簡単だったでしょう。
実際には、
「何をもらったか」
よりも、
「自分は何のためにこれをやっていると思っているのか」
のほうが大事だったりする。
この研究を読んでいると、人間の心って、ずいぶん面倒くさい。
でも、その面倒くささが、私はけっこう好きです。
「やる気を出させる」という言葉が、少し怖くなった
私たちは日常で、
「やる気を出させる」
という言葉をよく使います。
子どもにやる気を出させる。
部下にやる気を出させる。
利用者さんにやる気を出してもらう。
自分自身のやる気を引き出す。
でも、この論文を読んでから、
「やる気を出させる」
という言葉が少しだけ強く聞こえるようになりました。
その人の中には、もう何かがあるかもしれないからです。
興味。
好奇心。
誇り。
楽しさ。
誰かの役に立ちたい気持ち。
自分なりにうまくなりたい気持ち。
それを見ないまま、
「もっと動いてもらおう」
「もっと頑張ってもらおう」
と外から仕掛けを足していくと、本人の中にあったものまで見えなくなってしまうことがある。
だったら、
「やる気を出させる」より、「何がこの人を動かしているのかを見る」
くらいの言葉のほうが、私は好きだなと思いました。
大人になると、「好き」にいろいろ乗ってくる
この研究は子どものお絵描き実験ですが、大人になった自分を考えても、妙に刺さるところがあります。
子どものころって、もう少し単純でした。
絵を描く。
ゲームをする。
本を読む。
歌う。
虫を追いかける。
「それをやって何になるの?」
なんて、いちいち考えない。
好きだからやる。
終わり。
ところが大人になると、いろいろ乗ってきます。
「役に立つ?」
「お金になる?」
「評価される?」
「将来につながる?」
「誰かに見てもらえる?」
好きだったものの周りに、いつの間にか数字や意味や成果が並び始める。
気づけば、
「これ、好きだったはずなのに、なんでこんなに疲れてるんだろう」
となることがあります。
別に数字が悪いわけではありません。
成果も大事です。
お金も大事。
むしろ大人として生きるなら、かなり大事です。
でも、ときどき、
「最初は何が楽しかったんだっけ」
と戻る時間が必要なのかもしれません。
好きだったものがなくなったのではなく、その上にいろいろ積み上がりすぎて、見えなくなっているだけかもしれないからです。
「もっと」を足す前に、「もうある」を見る
私はこの論文から、
「ご褒美には注意しましょう」
という知識以上に、
「何かを足す前に、もうそこにあるものを見よう」
という感覚を持ち帰りました。
これは、やる気だけの話ではない気がします。
人を励ますときもそうです。
「もっと頑張れ」
の前に、
「もう十分頑張ってない?」
と見る。
何かを教えるときも、
「もっとできるように」
の前に、
「もうできていることは何だろう」
と見る。
自分に対しても、
「もっと成果を出せ」
「もっと成長しろ」
「もっと続けろ」
とアクセルを踏む前に、
「ところで、自分は何が好きでここまで来たんだっけ」
と見る。
人間、どうも「足す」のが好きなんですよね。
足りない。
まだ足りない。
もっと。
もっと。
もっと。
でも心というのは、ときどき、足すよりも邪魔をしないほうが元気に育つものなのかもしれません。
植物の芽を見て、
「もっと早く伸びろ!」
と毎日引っぱったら、たぶん普通に抜けます。
心も、少し似ている気がします。
「アドラーの昼寝」で、こういう論文を紹介したい理由
「アドラーの昼寝」で論文を紹介していると、
心理学の研究って、人生の正解を教えるものではないなとよく思います。
むしろ、
「そんな見方もあるのか」
と、自分の世界の角度を一度だけ変えてくれるもの。
今回の論文もそうでした。
ご褒美。
やる気。
子どものお絵描き。
題材だけ見れば、とても小さな研究です。
でも、その小さな実験から、
「人は何のために動くのか」
「自分でやりたい気持ちは、どう守られるのか」
「善意で何かを足すことが、いつでも良い結果になるのか」
という、かなり大きな問いまで広がっていく。
こういう瞬間が、心理学の面白いところだと思います。
論文って、本来はかなり硬い文章です。
読んでいると、
「なるほど」
の前に、
「英文が長い」
が来ることもあります。
でも、その奥には、
「人ってなんでこうなんだろう」
という、とても素朴な疑問が隠れています。
私は、その部分をできるだけ拾って、生活の言葉に戻したいと思っています。
研究室の白い机から、読んでいる人の今日の机まで。
少しでも橋がかかれば、それで十分です。
最後にひとつだけ
もし最近、
「好きだったことなのに、前ほど楽しくないな」
と感じているものがあるなら、
「もう飽きたんだ」
とすぐに決めなくてもいいかもしれません。
評価。
数字。
期待。
成果。
お金。
義務。
いつの間にか、いろいろなものが乗っていないでしょうか。
全部捨てる必要はありません。
ただ、その下にまだ、
「これ、けっこう好きだったんだよな」
という小さな気持ちが残っているかもしれません。
それを見つけられたら、少しだけ大事にしてみる。
誰にも見せなくていい。
評価されなくてもいい。
役に立たなくてもいい。
ただやりたいから、やる。
そんな時間が、大人にも少しくらいあっていいと思うのです。
ご褒美がなくても手が伸びるもの。
気づけば時間を忘れているもの。
理由を聞かれると、
「いや、なんとなく好きで」
くらいしか答えられないもの。
たぶん、そういうものは、思っている以上に大事です。
1973年の子どもたちがお絵描きをしていた小さな実験から、私はそんなことを考えました。
やる気は、いつも外からもらうものではない。
ときにはもう、ちゃんと自分の中にある。
だから無理に火をつける前に、
「あれ、これ、もう燃えてない?」
と気づける人でいたいなと思います。

制作ノート
出典論文:Lepper, M. R., Greene, D., & Nisbett, R. E. (1973).
Undermining children’s intrinsic interest with extrinsic reward: A test of the “overjustification” hypothesis.
Journal of Personality and Social Psychology, 28(1), 129–137.
American Psychological Association. DOI:10.1037/h0035519
掲載・確認先:APA PsycNet / Google Scholar / CiNii Research
記事について:本記事は、上記論文の内容をもとに、一般の読者向けに要約・解説したものです。原文の趣旨を尊重しつつ、読みやすさを重視して再構成しています。
制作体制:本記事は、GPT-5.6 Thinking (Sol)を用いて下書きを作成したうえで、当サイト管理人・阿部牧歌が内容を確認し、表現や流れを整えながら仕上げています。機械の速さと、人の目と感覚の両方を生かしながら、読みやすく信頼できる記事づくりを目指しています。




