物体の永続性はいつから?生後3か月半・4か月半の赤ちゃんを検証
- まだ話せない。でも「そこにある」は、もうわかっている?
- この論文をひとことで言うと
- この論文の要点
- 研究の背景:物体の永続性はいつから?赤ちゃんの理解をめぐって続いてきた大論争
- 研究方法:物体の永続性はどう実験する?赤ちゃんの「じーっ」を測った研究方法
- この研究でわかったこと:物体の永続性はいつから?生後3か月半・4か月半の赤ちゃんが示した反応
- ここが面白い:物体の永続性はもっと早く始まる?赤ちゃん研究が問い直した「わかる」の意味
- 私たちの生活にどう活かせる?:「わかっているのに、できない」はある。赤ちゃん研究から考える人の見方
- 少し注意したい点:物体の永続性は生後3か月半で完成?研究結果を読むときの注意点
- まとめ:物体の永続性はいつから?赤ちゃんは想像より早く「見えない物」を考えている
- あとがき
- 制作ノート
まだ話せない。でも「そこにある」は、もうわかっている?
『「見えなくなっても、ちゃんとそこにある?」生後3か月半・4か月半の赤ちゃんにみる物体の永続性』ルネ・バイヤルジョン(1987)
Baillargeon, R. (1987). Object permanence in 3½- and 4½-month-old infants. Developmental Psychology, 23(5), 655–664.
DOI:10.1037/0012-1649.23.5.655
赤ちゃんの前に、おもちゃをひとつ置いてみます。
赤ちゃんは、じーっと見ています。
では、そのおもちゃを布の下に隠してみましょう。
さて、このとき赤ちゃんの頭の中では、何が起きているのでしょうか。
「おもちゃ、隠れたな」
と思っているのでしょうか。それとも、
「……消えた?」
と、世界から完全に退場したことになっているのでしょうか。
大人にとっては、ちょっと不思議な質問ですよね。目の前のコップを机の下に置いたからといって、「本日をもちましてコップはこの世から消滅しました」とは思いません。
見えなくなっただけで、そこにはまだ存在している。
私たちは、そんなことをわざわざ考えることさえありません。
ところが、この当たり前の感覚は、生まれたときから備わっているのでしょうか。
ここから急に、赤ちゃんの世界が面白くなってきます。
「見えないけれど、ある」という不思議な力
心理学では、物が目の前から見えなくなっても、その物は存在し続けていると理解することを**「物体の永続性」**と呼びます。
名前だけ聞くと、大学の教室から出てきた難しそうな言葉です。
でも、中身はとても身近です。
たとえば、お母さんが部屋から出ていった。
姿は見えない。
でも、「お母さんという人そのものが宇宙から消滅した」とは考えない。
ボールがソファの下に転がった。
見えない。
でも、ソファの下にはまだボールがある。
私たちが暮らしている世界は、実はこうした**「見えなくても、そこにある」**という前提によってできています。
では赤ちゃんは、いつごろからこの世界のルールに気づくのでしょう。
ここで登場するのが、心理学者**ルネ・バイヤルジョン(Renée Baillargeon)**です。
1987年、バイヤルジョンは、生後3か月半と4か月半という、とても幼い赤ちゃんを対象にした実験を発表しました。
3か月半です。
まだ「物体の永続性について少々お話ししてよろしいでしょうか」などとは当然言いません。
寝返りだって、これからという赤ちゃんもいる時期です。
では、そんな赤ちゃんが「見えない物について何を知っているのか」を、どうやって調べるのでしょうか。
アンケートは無理です。
「箱が隠れたあとも存在していると思いますか?」
「そう思う・ややそう思う・どちらともいえない」
なんて聞いても、回答用紙はたぶん握られて、最終的には口へ向かいます。
そこで研究者たちが注目したのが、赤ちゃんの「見る」という行動でした。
赤ちゃんは、言葉の代わりに「目」で答えてくれる
バイヤルジョンの研究では、赤ちゃんの前で板のようなスクリーンを動かします。
そして、その動く途中に箱を置きます。
普通に考えれば、箱がある以上、スクリーンはそこで止まるはずです。
ところが実験では、まるで箱など存在しなかったかのようにスクリーンが動いてしまう、不思議な場面も赤ちゃんに見せました。
大人なら、
「いやいやいや、箱を通り抜けましたけど?」
となる場面です。
研究者が見たのは、赤ちゃんがその場面をどれくらい長く見るかでした。
もし赤ちゃんの中に、
「見えなくなったけれど、箱はまだそこにあるはず」
という予想があれば、その予想に反する出来事が起きたとき、
「ん?」
と長く見るかもしれません。
言葉を話せない赤ちゃんに、「どう思いました?」とは聞けません。
でも、その小さな目は、ときにかなり雄弁なのです。
そして実験の結果は、当時考えられていた赤ちゃん像に、なかなか面白い問いを投げかけることになりました。
生後わずか数か月の赤ちゃんでも、見えなくなった物がそのまま存在していることを、ある程度理解しているのではないか。
そんな可能性が見えてきたのです。
もちろん、「3か月半の赤ちゃんは大人と同じように世界を理解しています」とまで言えるわけではありません。
赤ちゃんの認知は、少しずつ形を変えながら育っていきます。
けれど、この研究を読んでいると、どうも赤ちゃんという存在を「何も分かっていない小さな人」と見るのは違う気がしてきます。
話せない。
説明できない。
自分が何を考えているのか、こちらに教えてもくれない。
それでも、その目の奥ではすでに、
「世界は、見えているものだけでできているわけじゃない」
という小さな理解が芽を出しているのかもしれません。
今回紹介するバイヤルジョンの1987年の研究は、そんな**赤ちゃんの「見えない世界を理解する力」**を、見る時間という小さな手がかりから探った研究です。
さて。
生後3か月半の赤ちゃんは、本当に「そこに箱がある」と知っていたのでしょうか。
しゃべれない研究参加者たちに、研究者はどうやって答えを聞いたのでしょう。
ここから、赤ちゃんの目を借りて、世界をもう一度見てみることにしましょう。

この論文をひとことで言うと
ひとことで言うなら、この論文は、
「赤ちゃんは、見えなくなった物のことを、大人が思っているよりずっと早く『まだそこにある』と理解しているかもしれない」
という研究です。
たとえば、赤ちゃんの前に箱があります。
その箱をスクリーンで隠します。
私たち大人なら、箱が見えなくなったからといって、
「箱、消滅しました」
とは思いません。
「いや、隠れてるだけでしょ」
で終わります。
ところが、発達心理学では長いあいだ、赤ちゃんがこうした**「見えなくなっても物は存在し続ける」**という考え方を、いつ身につけるのかが大きなテーマになってきました。
これが「物体の永続性」です。
ルネ・バイヤルジョンが1987年に発表したこの研究が面白かったのは、赤ちゃんに「箱はまだありますか?」と尋ねる代わりに、赤ちゃんが何を長く見るのかを利用したところでした。
もちろん、生後3か月半の赤ちゃんにインタビューしても、
「そうですね。私としては物体の存在は視覚的知覚とは独立していると考えます」
なんて答えてはくれません。
そこで研究者は、赤ちゃんが「これは変だぞ」と感じそうな出来事を見せます。
箱が隠れている場所を、本来なら箱にぶつかるはずのスクリーンが、そのまま通り抜けてしまう。
もし赤ちゃんが、
「見えなくなったけど、箱はまだそこにある」
と考えているなら、
「いや待って。今、箱ありましたよね?」
という出来事になります。
そして実際に、生後4か月半の乳児などは、こうした不可能な出来事をより長く見る傾向を示しました。
つまり赤ちゃんは、ただ目の前に映っている映像を眺めているだけではなく、
「このあと世界はこうなるはず」
という予想を、すでに少し持っているのではないか。
この研究は、そんな可能性を示しました。
赤ちゃんは「何も知らない状態」から始まるわけではないのかもしれない
この論文を読むと面白いのは、赤ちゃんを見る目が少し変わることです。
大人から見ると、赤ちゃんはできないことだらけです。
歩けない。
しゃべれない。
自分でご飯も作れない。
当然、確定申告もできません。
でも、「できないことが多い」と「何も理解していない」は、同じではありません。
表面上は静かに天井を眺めているように見えても、その頭の中では、
「これはこう動くはず」
「ここにあった物は、見えなくなっても残っているはず」
と、世界についての小さな予測が作られている可能性があります。
言葉になる前の知性です。
説明できる前の理解です。
そう考えると、赤ちゃんというのは、白紙のノートというより、すでに鉛筆を握って世界の法則を書き始めている存在なのかもしれません。
この論文が教えてくれるのは、単なる「物体の永続性の開始時期」だけではありません。
人間は、言葉を話せるようになるずっと前から、目の前の世界に規則を見つけ、予想し、その予想と現実を照らし合わせているのかもしれない。
そんな、人間の知性の始まりをのぞき込んだ研究なのです。
だから、この論文をさらに短く言うなら、
「赤ちゃん、思っていたより世界のこと知ってます。」
そんな一言が、いちばん似合う研究かもしれません。

この論文の要点
1. 赤ちゃんは、見えなくなった物も「まだそこにある」と考えている可能性がある
目の前から箱が見えなくなったからといって、赤ちゃんの頭の中でも「箱、消えました」となっているとは限りません。
この研究では、生後4か月半の赤ちゃん、そして条件によっては生後3か月半の赤ちゃんにも、隠れた物体が存在し続けていることを理解している可能性を示す反応が見られました。
つまり、赤ちゃんの世界は「いま目に映っているもの」だけでできているわけではないらしいのです。
まだ言葉にはできなくても、
「見えないけど、ありますよね?」
という理解の芽が、かなり早い時期から育っているのかもしれません。
2. 赤ちゃんは「ありえない出来事」を長く見る
では、しゃべれない赤ちゃんが何を理解しているのか、どうやって調べたのでしょう。
ここが、この研究の面白いところです。
研究者は、赤ちゃんに普通に起こる出来事と、物理的にはおかしい出来事を見せました。
たとえば、スクリーンの後ろに箱があるのに、そのスクリーンが箱を無視して倒れてしまう。
大人なら、
「ちょっと待ってください。箱、貫通しましたよ」
となります。
赤ちゃんも同じように「予想と違う」と感じるなら、その不思議な場面を長く見るかもしれません。
実際、赤ちゃんたちは不可能な出来事をより長く見る傾向を示しました。
つまり、赤ちゃんの「じーっ」は、ただの凝視ではありません。
そこには、
「私が思っていた世界のルールと違うぞ」
という、小さな驚きが隠れている可能性があるのです。
3. 「できない」と「わかっていない」は、同じではない
この研究の大きな意味は、赤ちゃんの能力を調べる方法そのものにもあります。
赤ちゃんは、隠したおもちゃを自分で探し出せないことがあります。
だから以前は、
「まだ、見えなくなった物が存在するとは理解していないのでは?」
とも考えられていました。
でも、手を伸ばせないことと、頭の中で理解していないことは別かもしれない。
バイヤルジョンの研究は、その可能性を示しました。
考えてみれば、大人でもそうですよね。
頭では分かっているけれど、うまく行動できない。
言葉にはできないけれど、なんとなく違和感はある。
人間の「わかる」は、いつも行動や言葉としてきれいに外へ出てくるわけではありません。
この論文が見せてくれたのは、そんな表に出てくる能力のさらに奥にある、赤ちゃんの小さな理解です。
3つをぎゅっとまとめるなら、
「赤ちゃんは見えない物も覚えているかもしれない。しかも世界の『おかしさ』にも気づいている。そして、その理解は行動に表れるより早く始まっているかもしれない」
というのが、この論文の大きな要点です。

研究の背景:物体の永続性はいつから?赤ちゃんの理解をめぐって続いてきた大論争
赤ちゃんの目の前で、おもちゃを布の下に隠します。
大人なら、
「はいはい、布の下にありますね」
で終わる話です。
ところが、発達心理学では、ここから話がずいぶん壮大になります。
赤ちゃんは、見えなくなった物が、それでも存在しているとわかっているのか?
言い換えれば、赤ちゃんの世界は「見えている範囲」だけでできているのか。それとも、目の前から消えた物についても、頭の中で「まだそこにある」と考えることができるのか。
この問題は、赤ちゃんの心を理解するうえで、とても大切なテーマでした。
そもそも「わかっている」を、どうやって調べればいい?
ここで困った問題が出てきます。
赤ちゃんは、自分の考えていることを説明してくれません。
「箱は見えなくなりましたが、その存在自体は継続していると認識しております」
とは言ってくれない。
こちらとしては、ぜひ聞いてみたいところですが、生後数か月ではインタビュー調査は成立しません。
そこで昔から、赤ちゃんが隠された物を探すかどうかが重要な手がかりとして使われてきました。
発達心理学者ジャン・ピアジェの研究では、乳児が隠された物を実際に探す行動などをもとに、物体についての理解がどのように発達するのかが考えられてきました。
ところが、ここには一つの大きな疑問が残ります。
「探さない」ということは、本当に「わかっていない」ということなのか?
という疑問です。
これ、考えてみると結構重要です。
たとえば私たち大人だって、
「わかっているけれど、できない」
なんてことは山ほどあります。
運動したほうがいい。
わかっている。
早く寝たほうがいい。
それもわかっている。
冷蔵庫のプリンを夜中に食べないほうがいい。
……非常によくわかっている。
それでも行動できないことはあります。
つまり、頭の中の理解と、それを行動として表に出せることは、必ずしも同じではありません。
赤ちゃんの場合なら、なおさらです。
隠された物を探すには、「そこに物がある」と理解するだけでは足りません。
手を伸ばす。布をどける。目と手をうまく協調させる。行動を開始する。
まだ身体を自由に動かせない赤ちゃんにとっては、意外と大仕事です。
だから、
「探さなかった」
という結果だけを見て、
「存在していることがわかっていない」
と判断していいのだろうか。
ここが、物体の永続性研究に残されていた大きな宿題でした。後の研究では、乳児が隠された物を手で探せるようになる時期より前から、別の測定方法によってその存在を予想している可能性が示されていきます。
ならば、手ではなく「目」に聞いてみよう
そこでバイヤルジョンたちは、発想を変えます。
赤ちゃんに、
「隠した箱を取ってください」
とお願いするのではなく、
「何を長く見るのか」
を調べることにしたのです。
赤ちゃんには、「ちょっと変だぞ」と感じたものを長く見る傾向があります。
ならば、赤ちゃんが世界について何か予想しているなら、その予想を破る出来事を見せたとき、見る時間に違いが出るかもしれない。
そこで登場したのが、あの有名な「跳ね橋」のように動くスクリーンです。
スクリーンの後ろには箱があります。
箱は途中から見えなくなります。
でも、箱が本当にそこに残っているなら、スクリーンは箱にぶつかって途中で止まるはずです。
ところが実験では、
箱があるはずの場所を、スクリーンがそのまま通り抜けたように見える場面
を赤ちゃんに見せました。
大人なら、
「いや、箱どこ行った」
となります。
では赤ちゃんはどうでしょう。
もし、
「箱は見えなくなったから、もう存在しない」
と考えているなら、スクリーンが通過してもそれほど変ではありません。
でも、
「見えないけれど、箱はまだそこにある」
と考えているなら、
「……今の、おかしくない?」
となるはずです。
1987年の研究では、生後4か月半の乳児、さらに条件によっては生後3か月半の乳児も、こうした「箱を無視してスクリーンが動く不可能な出来事」をより長く見る結果が報告されました。
もちろん、これだけで「赤ちゃんは大人とまったく同じ物体概念を持っている」と言えるわけではありません。
でも少なくとも、
「探せないから、わかっていない」
という単純な図式には疑問符がつきました。
実際、その後のバイヤルジョンらの研究でも、3か月半から4か月半ほどの乳児が、隠れた物体の存在を予想していることを示す結果が重ねられていきます。
この研究の背景にあったのは、難しい理論争いだけではありません。
もっと素朴な問いです。
「赤ちゃんができないことばかり見て、本当はわかっていることを見落としていないだろうか?」
バイヤルジョンの研究は、その問いから始まっています。
手がまだ上手に動かなくても。
言葉がまだ話せなくても。
赤ちゃんの頭の中では、大人が思っているよりずっと早く、世界についての「こうなるはず」が作られているのかもしれない。
だからこそ研究者たちは、赤ちゃんの手ではなく、そのじっと見つめる目に耳を傾けることにしたのです。
そして、その小さな「じーっ」が、それまで考えられていた赤ちゃんの世界を、少しずつ塗り替えていくことになります。

研究方法:物体の永続性はどう実験する?赤ちゃんの「じーっ」を測った研究方法
さて、いよいよ実験です。
とはいえ、今回の研究参加者は生後3か月半と4か月半の赤ちゃん。
研究室に来てもらって、
「それでは物体の永続性について、あなたのお考えをお聞かせください」
とはいきません。
そこでルネ・バイヤルジョンは、赤ちゃんが**「どの場面を長く見るのか」**を手がかりにしました。
この論文では3つの実験が行われていますが、基本となる仕組みはとてもシンプルです。
赤ちゃんの予想どおりの出来事と、「いや、それはおかしいでしょう」という出来事を見せて、見る時間を比べる。
だいたいこれです。
まずは「パタン、パタン」に慣れてもらう
赤ちゃんの前には、一枚のスクリーンが置かれました。
このスクリーンは、跳ね橋のように前後へ動きます。
最初は箱など置かず、スクリーンが180度動いて、
「パタン」
そして戻って、
「パタン」
という動きを繰り返し見せます。
もちろん実際に「パタン」と効果音が鳴るわけではありませんが、イメージとしてはそんな感じです。
研究ではまず、この動きを何度も見てもらい、赤ちゃんがだんだん見慣れてくるのを待ちます。これを心理学では**「馴化(じゅんか)」**と呼びます。
最初は、
「なんだこれ」
と見ていた赤ちゃんも、何度も繰り返されると、
「はいはい、またそれですね」
とでも言うように、見る時間が短くなっていきます。
赤ちゃんも、同じ番組の再放送にはちゃんと慣れるわけです。
そして十分に見慣れたところで、実験は本番に入ります。
次に、スクリーンの後ろへ箱を置く
今度は、スクリーンの後ろに箱を置きます。
スクリーンが立っているときには箱が見えます。
ところがスクリーンが倒れていくと、箱はその後ろに隠れて見えなくなります。
ここで、2種類の出来事を赤ちゃんに見せました。
一つ目は、**「可能な出来事」**です。
スクリーンが倒れていき、後ろに隠れている箱にぶつかるはずのところで止まります。
これは普通です。
箱がある。
スクリーンが倒れる。
箱に当たる。
止まる。
物理世界、通常営業です。
そしてもう一つが、「不可能な出来事」。
こちらでは、箱がスクリーンの後ろに隠れているにもかかわらず、スクリーンがそのまま180度倒れてしまいます。
つまり見た目としては、
箱があるはずの場所を、スクリーンが通り抜けてしまった
ことになります。
大人なら、
「待って待って。さっき箱ありましたよね?」
となります。
では、赤ちゃんはどうでしょう。
赤ちゃんが「長く見たほう」を調べる
この実験で重要なのは、赤ちゃんが箱を取りに行くかどうかではありません。
可能な出来事と不可能な出来事の、どちらを長く見たか。
そこを測りました。
もし赤ちゃんが、
「箱はスクリーンの後ろに隠れたあとも存在している」
と理解しているなら、スクリーンが箱のある場所を通過してしまう場面は変なはずです。
赤ちゃんの頭の中を少し乱暴に字幕にすると、
「え?」
です。
さらに字幕を増やすなら、
「箱、いましたよね?」
でしょう。
反対に、赤ちゃんが、
「見えなくなった箱は、もう存在していない」
と考えているなら、スクリーンが最後まで倒れてもそれほど不思議ではありません。
だからこそ、どちらを長く見るかが、赤ちゃんの予想を探る手がかりになるわけです。
この研究では、生後4か月半の赤ちゃんと、生後3か月半のうち比較的早く馴化した赤ちゃんが、可能な出来事よりも不可能な出来事を長く見る結果を示しました。
「単に大きく動くほうが好きだっただけでは?」も確認した
ここで研究者は、ちゃんと疑います。
「でも赤ちゃんって、単にスクリーンが大きく180度動くほうが面白かっただけじゃないの?」
たしかに。
それなら、
「箱が消えたことに驚いた!」
ではなく、
「いっぱい動いた!もっと見る!」
だった可能性があります。
そこでバイヤルジョンは、箱を置かない条件も用意しました。
箱がなければ、スクリーンが180度倒れても何もおかしくありません。
この対照実験の結果も含めて検討したところ、単純に「大きく動くスクリーンが好きだった」という説明だけでは結果を説明しにくいことが確認されました。
つまり、この研究でやったことをものすごく簡単にまとめると、
①スクリーンの動きに慣れてもらう
②その後ろに箱を置く
③「普通の出来事」と「箱をすり抜けたように見える変な出来事」を見せる
④どちらを長く見るか比べる
という実験です。
機械も難しい質問紙も出てきません。
研究者が頼ったのは、赤ちゃんの**「じーっ」**でした。
でも、この小さな「じーっ」が面白い。
赤ちゃんはまだ、
「物体は視界から消失しても存在し続けます」
とは言えません。
けれど、世界が自分の予想から外れたとき、
「それ、ちょっとおかしくない?」
と目で反応することはできるのかもしれません。
バイヤルジョンの研究方法の面白さは、赤ちゃんに大人と同じ答え方を求めなかったところにあります。
しゃべれないなら、しゃべらなくていい。
手で探せないなら、探さなくてもいい。
今その赤ちゃんにできる方法で、何を知っているのかを聞いてみる。
そんな発想で、研究者はまだ言葉を持たない赤ちゃんの世界をのぞこうとしたのです。

この研究でわかったこと:物体の永続性はいつから?生後3か月半・4か月半の赤ちゃんが示した反応
では、赤ちゃんたちはいったい何を見せてくれたのでしょうか。
結果から言うと、なかなか面白いことになりました。
生後4か月半の赤ちゃんは、「ありえない出来事」を、普通に起こりうる出来事より長く見たのです。
覚えているでしょうか。
「普通の出来事」では、スクリーンの後ろに箱があるので、スクリーンは箱にぶつかるところで止まります。
これは何もおかしくありません。
箱があります。
スクリーンが倒れます。
箱にぶつかります。
止まります。
世界、今日も正常運転です。
ところが「ありえない出来事」では、箱がスクリーンの後ろに隠れているのに、スクリーンがそのまま180度倒れてしまいます。
見た目としては、
「箱があった場所を、スクリーンが通り抜けてしまった」
ことになります。
そして赤ちゃんは、こちらを長く見ました。
もし赤ちゃんが、
「箱は見えなくなった瞬間、もう存在しない」
と考えているなら、スクリーンが最後まで倒れても、それほど変ではありません。
でも、
「いや、箱は見えなくなっただけで、まだそこにありますよね」
と予想していたなら、話は違います。
スクリーンが箱のある場所を通過した瞬間、
「……え?」
となる。
その「え?」が、見る時間の長さとして現れたのではないか。
バイヤルジョンは、そう考えました。原論文では、この結果を、乳児が隠された箱の存在を表象し、スクリーンがその箱の占める空間を通り抜けられないことを予想していた証拠として解釈しています。
生後4か月半でも、もう「見えない物」を考えている?
ここが、この研究のかなり意外なところです。
当時、物体の永続性について大きな影響を与えていたピアジェの考えでは、乳児が隠された物を探す行動などをもとに、物体の永続性はもっと後になって明確になると考えられていました。
ところがバイヤルジョンの研究では、まだ自分で隠れた物を上手に探せないような月齢の赤ちゃんにも、「見えない物はまだ存在している」と予想しているような反応が見られたのです。論文は、この結果が物体の永続性が現れる年齢についてのピアジェの主張に重大な疑問を投げかけるものだとしています。
これは結構、大きな違いです。
従来の見方では、
「隠したおもちゃを探さない」
という行動が重要な判断材料でした。
でもバイヤルジョンの結果を見ると、
探せないけれど、わかっている可能性がある。
ということになります。
赤ちゃん、
「手では答えられませんけど、目なら答えられます」
だったのかもしれません。
私たち大人は、つい「できること」で相手の理解を判断します。
言えないなら、知らない。
できないなら、わかっていない。
行動に出ないなら、理解していない。
でも、この研究はそこに、
「ちょっと待って。本当にそうですか?」
と問いかけてきます。
人間の頭の中にあるものは、いつもそのまま行動に出てくるとは限らないのです。
では、生後3か月半ではどうだった?
そして、この論文がさらに面白いのはここからです。
研究タイトルにもあるように、対象になったのは4か月半だけではありません。
生後3か月半の赤ちゃんについても調べています。
3か月半。
かなり小さいです。
まだこの世にやってきて100日ほど。
大人側としては、
「さすがにそこまでは……」
と思いたくなるところです。
ところが、こちらでも興味深い結果が出ました。
ただし、ここは少し丁寧に読まなくてはいけません。
生後3か月半の赤ちゃん全員が、同じようにはっきりした反応を示したわけではありません。
研究では、スクリーンの動きに比較的早く慣れた**「馴化の速い乳児」**について、不可能な出来事を可能な出来事より長く見る傾向が確認されました。
つまり、
「生後3か月半になれば、すべての赤ちゃんが完全な物体の永続性を持っています」
という研究ではありません。
ここは大事です。
研究結果というものは、つい一行にすると景気がよくなります。
「なんと3か月半で物体の永続性が完成!」
と書けば、とても派手です。
でも、科学はそんなに威勢よく太鼓を叩いてくれません。
この論文から慎重に言えるのは、
少なくとも一部の生後3か月半の乳児、そして生後4か月半の乳児は、見えなくなった物体が存在し続けていることを予想している可能性がある
ということです。
「完成した」というより、
すでに、その理解の芽が見えている。
そんな表現のほうが、この研究には似合います。
いちばん意外なのは、「見る」だけで世界を予想していたこと
そして私は、この研究でいちばん面白いのは月齢そのものだけではないと思います。
もっと面白いのは、
赤ちゃんが、目の前で起きていることをただ受け取っているだけではなかったかもしれない
という点です。
スクリーンが動く。
箱が隠れる。
スクリーンが倒れる。
赤ちゃんは、ただ映画を見るようにその映像を眺めていたのではなく、
「箱はまだ後ろにあるはず」
「だったらスクリーンは、そこで止まるはず」
という世界についての予想を作っていた可能性があります。
そして現実がその予想を裏切ると、
「なんで?」
と長く見る。
これ、かなりすごい話ではないでしょうか。
まだ「箱」という言葉も知らない。
「存在」という言葉も知らない。
「物理法則」なんてもちろん知らない。
それでも、
世界には世界なりのルールがある。
そのことを、赤ちゃんは言葉より先に学んでいるのかもしれません。
「言葉を知っていること」と「世界を知っていること」は、どうやら同じではないのです。
この研究で見えてきたのは「赤ちゃんの完成形」ではない
ただし、この結果を、
「赤ちゃんは生後3か月半で、大人と同じように物体を理解している」
と受け取るのは行きすぎです。
物体についての理解には、その物が存在することだけでなく、どこにあるのか、大きさはどうか、どんな動きをするのかなど、さまざまな要素があります。
その後の乳児研究でも、隠れた物についてどこまでの情報を使って推論できるのかは、発達とともに細かく変わっていくことが調べられてきました。
だから、この研究が見つけたものを、
「物体の永続性の完成」
と考えるより、
「思っていたよりずっと早く、その土台が見えていた」
と考えるほうがよいでしょう。
それでも、この発見には十分なインパクトがあります。
赤ちゃんは、見えているものだけを眺めて生きているわけではない。
見えなくなったものを頭の中に残し、
「まだそこにあるはず」
と予想している可能性がある。
そして、その予想に反する出来事が起きれば、
じーっ。
と見る。
言葉にすれば、たったそれだけです。
でも、その「じーっ」の向こう側には、
「世界は、見えなくなったからといって消えてしまうわけではない」
という、人間が世界を理解するためのとても大切な一歩が隠れていたのかもしれません。
この論文が私たちに見せてくれたのは、賢い赤ちゃんのびっくり映像ではありません。
人間は、言葉を持つよりずっと前から、目の前の出来事に「こうなるはず」という予想を重ねながら、少しずつ世界を理解しているのかもしれない。
そんな、知性が芽を出す瞬間なのです。

ここが面白い:物体の永続性はもっと早く始まる?赤ちゃん研究が問い直した「わかる」の意味
この研究で私がいちばん面白いと思うのは、
「生後3か月半の赤ちゃん、そんなことまでわかるの?」
という驚きだけではありません。
もっと面白いのは、この研究が私たちの中にある、
「できない人は、わかっていない人」
という思い込みを、静かにひっくり返してくるところです。
赤ちゃんの研究を読んでいたはずなのに、気がつくと大人の世界まで照らされている。
ここが、なんとも味わい深いのです。
「取れない」から「知らない」と決めていいのだろうか
たとえば、目の前のおもちゃを布で隠したとします。
赤ちゃんが布をめくって、おもちゃを探した。
それなら、
「見えなくなっても、おもちゃがそこにあるとわかっているんだな」
と考えやすい。
ところが、探さなかったらどうでしょう。
以前の研究では、こうした「探す」という行動が、赤ちゃんの理解を判断する大切な手がかりになっていました。
でも、バイヤルジョンの研究を見ていると、ひとつ疑問が出てきます。
探さないのではなく、探せないだけかもしれない。
ここです。
これ、大人の世界に置き換えると、とてもわかりやすいんです。
たとえば、
「人前で自分の意見を言えない」
という人がいたとします。
だからといって、
「この人は何も考えていない」
とは限りません。
むしろ頭の中では、
「こう言ったら相手はどう思うかな」
「でも、こちらの考え方もあるよな」
「この言葉だと強すぎるかな」
と、ものすごい会議が開かれているかもしれません。
脳内会議、議題多めです。
でも外から見えるのは「黙っている」という行動だけ。
ここで、
黙っている=考えていない
と判断すると、その人の内側にあるものを丸ごと見落としてしまいます。
赤ちゃんにも、似たことが起きていたのかもしれません。
手を伸ばせない。
布をめくれない。
隠れた物を取り出せない。
だからといって、
「そこに物があることまで、わかっていない」
とは限らない。
バイヤルジョンは、そこを「見る時間」という別の窓から確かめようとしました。
この発想が、私はとても面白いと思うのです。
心は、行動より少し先を歩いていることがある
私たちは、人のことをどうしても「見えるもの」で判断します。
できた。
できなかった。
言った。
言わなかった。
動いた。
動かなかった。
もちろん、行動を見ることは大切です。
でも、人間の内側というのは、そんなにきれいに外側へ出てくるものではありません。
理解しているけれど、できない。
感じているけれど、言葉にできない。
気づいているけれど、行動には移せない。
こんなことは、大人になっても山ほどあります。
「早く寝れば明日ラクなのに」
わかっています。
23時58分。
スマートフォンを見ています。
「運動したほうが体にいい」
知っています。
ソファと固い友情を育んでいます。
「言いすぎたから謝ったほうがいい」
それも、たぶん本人が一番わかっています。
でも言えない。
つまり人間には、
「わかる」と「できる」のあいだに、意外と広い川が流れている
ことがあります。
そしてバイヤルジョンの研究は、生後数か月のところですでに、その川がある可能性を見せてくれたとも言えます。
赤ちゃんはまだ行動として示せなくても、その内側では、世界について何かを理解し始めているかもしれない。
そう考えると、人間というものはずいぶん不思議です。
私たちは、できるようになった瞬間に突然わかるのではなく、
まず心の中に小さな理解が生まれ、それがあとから行動へ追いついてくることがあるのかもしれません。
赤ちゃんは、ただ世界を「見ている」だけではなかった
もうひとつ、この研究で私が好きなのは、
赤ちゃんがどうやら、
目の前で起こったことを、そのまま受け取っているだけではない
らしいところです。
箱がある。
スクリーンが倒れる。
箱が隠れる。
スクリーンがさらに倒れる。
これだけなら、目の前で映像が流れているだけです。
ところが赤ちゃんが「不可能な出来事」を長く見たということは、その前に何らかの予想があった可能性があります。
つまり、
「箱はまだそこにあるはず」
「だったらスクリーンは途中で止まるはず」
という具合です。
そして予想が外れる。
「……ん?」
となる。
この**「ん?」**が面白い。
実は人間の学びって、この「ん?」から始まることがとても多いんですよね。
予定ではこうなるはずだった。
でも、ならなかった。
自分はこういう人間だと思っていた。
でも、違った。
この人とは合わないと思っていた。
でも、話してみたら意外と面白かった。
世界はこういうものだと思っていた。
ところが、そうでもなかった。
その瞬間に、
自分の中の「世界の説明書」を書き直す必要が出てきます。
赤ちゃんも、もしかすると同じことをしているのかもしれません。
もちろん、生後数か月の赤ちゃんが、
「ふむ。私の物理世界モデルに修正が必要ですね」
などと考えているわけではありません。
でも、「予想」と「現実」のズレに反応する。
そして、そのズレを見る。
この小さな働きは、のちに私たちが世界を学んでいくための、とても重要な土台なのかもしれません。
「何も知らない赤ちゃん」というイメージが少し崩れる
赤ちゃんというと、
「何も知らないところから、一つずつ覚えていく存在」
というイメージを持ちやすいと思います。
もちろん、生まれてから学んでいくことは山ほどあります。
でも、この研究を読んでいると、
「何も知らない」から始まる
というより、
ものすごい勢いで世界の規則を探している途中
と考えたほうが、しっくりくる気がします。
しゃべれないけれど、見ている。
歩けないけれど、予想している。
説明できないけれど、「なんか変だぞ」には気づいている。
そう考えると、ベビーベッドで天井を眺めている赤ちゃんの印象まで少し変わります。
ぼーっとしているように見えて、
頭の中ではひそかに、
「重力、だいたい把握」
「物は急に消えない、と」
「大人、よく顔を近づけてくる」
などと、この世界の取扱説明書を作っている途中なのかもしれません。
もちろん最後の一つは、この論文では調べていません。
私たちは「できること」だけで人を見すぎているのかもしれない
そして、この研究を大人の世界へ持ち帰るなら、私はここがいちばん大切だと思っています。
人の内側は、外から見える能力だけでは測れない。
仕事が遅い人が、仕事を理解していないとは限りません。
説明が苦手な人が、考えていないとは限りません。
会議で発言しない人が、意見を持っていないとは限りません。
学校で手を挙げない子が、答えを知らないとは限りません。
そして、自分自身についてもそうです。
「わかっているのにできない自分」を見て、
「結局、自分は何もわかっていないんだ」
と責める必要はありません。
理解と行動には、ときどき時差があります。
心が先にたどり着いて、身体や言葉があとから追いついてくることもある。
もちろん、バイヤルジョンの乳児研究が、大人の仕事や人間関係について直接それを証明したわけではありません。
ここは研究結果と、そこから私たちが考えられることを分けておく必要があります。
それでも、この研究を眺めていると、
「見えている反応だけで、その人の中身まで決めないほうがいい」
という姿勢を、そっと持ち帰りたくなります。
赤ちゃんが教えてくれたのは、
「生後3か月半でも意外と賢いぞ」
という話だけではありません。
もっと静かなことです。
見えていないからといって、存在しないとは限らない。
これは、この論文で研究された「物体」の話です。
でも不思議なことに、人の理解や思いにも、少し似ています。
言葉になっていなくても、そこにあるものがある。
行動になっていなくても、育っているものがある。
外から見えなくても、その人の中ではちゃんと存在しているものがある。
「物体の永続性」を調べた研究なのに、読み終わるころには、
人間の心にも、見えないまま存在しているものがたくさんあるのだろうな
と思えてくる。
そんなところが、私にはこの論文のいちばん面白いところです。

私たちの生活にどう活かせる?:「わかっているのに、できない」はある。赤ちゃん研究から考える人の見方
この論文を読んだからといって、明日から職場でスクリーンを180度倒して、同僚の反応時間を測る必要はありません。
たぶん人事部に呼ばれます。
でも、この研究には、私たちの日常へ持ち帰れる大事な視点があります。
それは、
「できない」と「わかっていない」を、同じものとして扱わないこと。
です。
バイヤルジョンの研究が直接調べたのは、あくまで赤ちゃんの物体の永続性です。大人の仕事や人間関係を調べた研究ではありません。
ですから、
「この研究によって、大人も理解しているのに行動できないと証明された」
とまで言うことはできません。
ただ、研究から少し離れて私たちの生活を眺めてみると、この考え方はかなり役に立ちます。
なぜなら私たちは、他人にも自分にも、つい**「外から見えた結果」だけで判定を下してしまう**からです。
1.「できない人」を、すぐに「わかっていない人」にしない
たとえば職場で、新しい仕事を教えたとします。
一度説明した。
でも、うまくできなかった。
そんなとき、
「さっき説明したよね?」
と言いたくなることがあります。
ありますよね。
心の中の小さな鬼教官が、腕組みを始めます。
でも、仕事というのは意外と複雑です。
説明された内容を理解することと、それを実際の場面で使えることのあいだには、いくつもの段差があります。
何をするかはわかっている。
でも順番が混乱する。
緊張して頭が真っ白になる。
時間を気にすると焦る。
質問するタイミングがわからない。
知識は入っているけれど、まだ身体がついてこない。
こういうことは普通にあります。
だから、
「できなかった」という一回の行動だけで、「理解していない」と決めない。
この姿勢は、かなり大切です。
「どこまではわかってる?」
「どの場面で止まった?」
「説明を聞くとわかるけど、一人でやると難しい感じ?」
そんなふうに、少し細かく見ていく。
すると、
「あ、この人はゼロからわかっていないんじゃなくて、80までは来てるんだな」
ということがあります。
できなかった人を見るとき、私たちはつい「0点」と「100点」の二択にしてしまいます。
でも、人間の理解はそんなにデジタルではありません。
だいたい途中です。
わかっている部分と、まだつながっていない部分が混ざっています。
人間、かなりベータ版で生きています。
2.言葉にできないからといって、何も感じていないとは限らない
この視点は、人間関係にも使えます。
たとえば、
「どうしたの?」
と聞いたのに、
「別に」
と返ってきた。
これだけ聞くと、
「あ、何もないのね」
と思いたくなります。
でも、本当はそうではないかもしれません。
自分でも何がつらいのかわからない。
言葉にすると大げさな気がする。
相手を困らせたくない。
うまく説明できない。
話そうとすると、いろんな感情が絡まってしまう。
人間の心は、ときどき言葉になる前の状態で存在しています。
もやもやしている。
引っかかっている。
なんとなく嫌だった。
でも、まだ名前がついていない。
こういうものはあります。
だから、
「説明できない=何も感じていない」
ではありません。
赤ちゃんの研究でも、言葉による回答ではなく、見る時間という別の手がかりから内側を探りました。
私たちの日常でも、ときには「言葉になったこと」だけでなく、
表情。
間。
ためらい。
いつもとの違い。
そんな小さなサインにも目を向けてみる。
もちろん勝手に相手の心を決めつける必要はありません。
「あの人は絶対こう思っている」
ではなく、
「まだ言葉になっていない何かがあるかもしれない」
くらいに余白を残しておく。
その余白が、人間関係を少しやさしくします。
3.子どもの「できない」にも、途中の理解があるかもしれない
子育てや教育でも、同じことが言えます。
子どもに何かを教えた。
でもできない。
そこで、
「全然わかってないじゃない」
と言ってしまうと、その瞬間に見えなくなるものがあります。
本当は、
「ここまではわかっている」
「でも、ここから先が難しい」
という途中地点があるかもしれないからです。
算数なら、考え方はわかっているけれど計算で間違える。
文章なら、意味はわかっているけれど説明が苦手。
人間関係なら、謝ったほうがいいとわかっているけれど、恥ずかしくて言えない。
「できない」を細かく見ると、そこにはいろいろな理由があります。
そしてこれは、子どもに限りません。
職場の新人もそう。
家族もそう。
自分自身だってそうです。
人間の成長は、
「わからない」
↓
「わかった」
↓
「できた」
と三段跳びで進むわけではありません。
その間に、
「なんとなくわかる」
「説明されればわかる」
「一人だと不安」
「たまにできる」
「余裕があるとできる」
「ようやく自然にできる」
という、名もない駅がたくさんあります。
私たちは、その途中の駅をもう少し見てもいいのだと思います。
4.自分の「わかっているのにできない」にも、少しだけ寛容になる
そして、この研究から持ち帰りたい視点は、他人に向けるだけではありません。
自分自身にも向けられます。
私たちは、自分に対してかなり厳しい採点をすることがあります。
「わかってるなら、やればいいじゃん」
「知ってるのにできないなんて意味がない」
「何回同じことを繰り返すんだ」
こんなふうに。
たしかに、行動は大事です。
ずっと「わかっています」で止まっていては、変わらないこともあります。
でも、
わかっているのに、まだできない段階
というものもあります。
たとえば、
休んだほうがいいとわかっているけれど、休むと罪悪感が出る。
人に頼ったほうがいいとわかっているけれど、迷惑だと思われそうで怖い。
嫌なことは断っていいとわかっているけれど、「いい人」でいようとしてしまう。
失敗しても人生は終わらないとわかっているけれど、失敗の前ではやっぱり怖い。
こういうとき、
「わかってるのにできない自分はダメだ」
と切り捨てるより、
「理解はもうここまで来ている。行動が追いつくには、もう少し練習がいるんだな」
と考えるほうが、次へ進みやすいことがあります。
できない自分を甘やかすという話ではありません。
現在地を正確に見るという話です。
0点ではない。
でも、100点でもない。
今は63点くらい。
それなら次は64点へ行けばいい。
人生、だいたいそのくらいの歩幅で進みます。
5.人を見るとき、「別の測り方はないかな?」と考えてみる
バイヤルジョンの研究の発想で、日常にいちばん応用しやすいのは、もしかするとここかもしれません。
一つの測り方でわからなかったら、別の測り方を考える。
赤ちゃんが隠れた物を探さない。
では、
「理解していない」
で終了するのではなく、
「見る時間ならどうだろう?」
と考えた。
この発想です。
仕事が苦手そうに見える人がいる。
なら、
「能力がない」
で終わらず、
口頭説明ではなくメモならどうだろう。
一度に全部ではなく、一工程ずつならどうだろう。
人前ではなく、一対一ならどうだろう。
時間制限がなければどうだろう。
と、測り方や環境を変えてみる。
すると、今まで見えていなかった力が出てくることがあります。
学校でも、職場でも、人間関係でも、
人を一つの場面だけで採点しない。
これはとても大切です。
面接が苦手な人が、仕事まで苦手とは限らない。
話すのが苦手な人が、考えるのも苦手とは限らない。
動きが遅い人が、丁寧さまで足りないとは限らない。
表面に出ている一つの行動は、その人全体ではありません。
人間はそんなに一枚岩ではなく、もう少し入り組んだ建物です。
正面玄関が閉まっていたからといって、建物そのものが空っぽとは限りません。
裏口もある。
窓もある。
たぶん非常口もあります。
「見えないもの」を、すぐに「ないもの」にしない
この論文は、物体の永続性を扱った研究です。
つまり、
「見えなくなった物は、それでも存在しているのか」
という話でした。
でも、この研究を日常へ持ち帰ると、少し別の言葉にも聞こえてきます。
相手の理解が見えない。
努力が見えない。
気持ちが見えない。
成長が見えない。
自分自身の進歩が見えない。
そんなとき、
「見えないから、ない」
とすぐに結論を出さない。
もしかすると、まだ表に出てきていないだけかもしれません。
まだ言葉になっていない。
まだ行動になっていない。
まだ安定してできるところまで育っていない。
でも、そこにはすでに小さな何かがある。
もちろん、何でも都合よく「きっとある」と考えればいいわけではありません。
大切なのは、決めつけずに確かめることです。
「本当にわかっていないのかな?」
「別の方法なら伝えられるかな?」
「今できているところはどこだろう?」
そんな問いを、一つだけ増やしてみる。
それだけでも、人を見る目はずいぶん変わります。
バイヤルジョンは、赤ちゃんの「できない」を見て研究を終わらせませんでした。
その奥に何かないかと、別の窓を探しました。
私たちも、人を見るとき、自分を見るとき、
「見えているものだけが、その人の全部ではない」
という小さな余白を持っておけたらいい。
赤ちゃんの「じーっ」から始まった研究が、そんな人との付き合い方まで考えさせてくれる。
私はそこに、この論文を日常へ持ち帰るいちばん面白い意味があると思います。

少し注意したい点:物体の永続性は生後3か月半で完成?研究結果を読むときの注意点
ここまで読んでくると、ついこうまとめたくなります。
「なるほど。赤ちゃんは生後3か月半でも、物体の永続性をちゃんと理解しているんですね」
うん。
言いたくなります。
タイトルにもしたくなります。
太字にもしたくなります。
なんなら赤い文字で囲みたくなります。
でも、研究を読むときは、ここで少しだけブレーキを踏んでおきたいところです。
この論文が示したのは、とても興味深い結果です。
だからといって、
「生後3か月半で物体の永続性が完成することが証明された」
とまで言ってしまうと、研究が実際に示した範囲より少し遠くまで走ってしまいます。
科学というのは、面白い結果ほど「どこまで言える?」を確認することが大切です。
おいしいケーキほど、原材料表示も見ておこう。
そんな感じです。
「長く見た」ことから、赤ちゃんの頭の中を推測している
まず覚えておきたいのは、この研究では赤ちゃんに、
「箱はまだ存在していると思いますか?」
と聞いたわけではないということです。
もちろん聞けません。
そこでバイヤルジョンは、赤ちゃんがどちらの出来事を長く見るかを手がかりにしました。
箱が隠れているのに、スクリーンがその場所を通り抜けてしまう。
その不可能な出来事を赤ちゃんが長く見た。
そこから、
「赤ちゃんは箱がまだそこに存在すると予想していたのではないか」
と考えたわけです。
これはとても工夫された研究方法です。
でも大事なのは、
「長く見た」という観察された事実と、
「箱の存在を予想していた」という研究者の解釈
は、まったく同じものではないということです。
研究ではいつも、
「こういう反応が出た」
という結果から、
「では、頭の中では何が起きていたのだろう?」
を推測します。
だからこそ、別の説明ができないかを確かめるために、条件を変えたり、対照実験を行ったりします。
今回の研究でも、
「単にスクリーンが大きく動くほうが面白かっただけでは?」
という可能性などを考えて、複数の実験が行われました。
それでも、赤ちゃんの頭の中へ小型カメラを入れて、
「はい、ただいま物体の永続性を確認しました」
と直接見たわけではありません。
心理学、とくに乳児研究では、この**「観察したもの」と「そこから考えられること」の距離**を意識しておくことが大切です。
生後3か月半の赤ちゃん全員が同じ反応をしたわけではない
そして、もうひとつ重要なのが3か月半児の結果です。
ここだけ抜き出して、
「3か月半でも物体の永続性がある!」
とまとめてしまうと、少し雑になります。
この研究では、生後4か月半の乳児には比較的はっきりとした結果が見られました。
一方、生後3か月半では、すべての赤ちゃんが同じように不可能な出来事を長く見たわけではありません。
特に、実験の最初に行われた「スクリーンの動きに慣れてもらう段階」で、比較的早く慣れた赤ちゃんたちに、その傾向が見られました。
つまり、
「生後3か月半になった瞬間、人類は全員『物体の永続性』を獲得します」
という話ではありません。
発達は、そんなにカレンダーどおりではありません。
赤ちゃん側も、
「本日で生後105日ですので、物体の永続性を実装します」
とはなりません。
発達には個人差がありますし、どんな課題を使うかによっても、見えてくる能力は変わります。
だからこの研究は、
「少なくとも、とても早い時期から隠れた物体について何らかの予想をしている赤ちゃんがいる可能性がある」
くらいに受け取ると、研究の面白さと慎重さを両方残せます。
「物体の永続性がある・ない」をスイッチのように考えない
もうひとつ注意したいのは、
物体の永続性を、
OFF → ON
のスイッチのように考えないことです。
昨日までありませんでした。
今日からあります。
ピッ。
そんな単純な能力ではありません。
「物が見えなくなっても存在する」という理解にも、いろいろな深さがあります。
存在していることがわかる。
どこにあるかを覚えている。
隠され方によって場所を予測できる。
その物の大きさや形についても考えられる。
実際に手を伸ばして探すことができる。
こうした能力が、全部いっぺんに同じ日に完成するとは限りません。
だから、
「3か月半児が不可能な出来事を長く見た」
という結果と、
「3か月半児が成熟した物体概念を完成させている」
という主張の間には、かなり距離があります。
今回の研究は、その長い発達の道のかなり早い地点に、
「ここにも何かありそうですよ」
という小さな旗を立てた研究、と考えるとわかりやすいかもしれません。
「ピアジェは間違っていた」で終わらせない
この研究を紹介すると、
「つまり、ピアジェは間違っていたんですね」
とまとめたくなることもあります。
でも、これも少し慎重に見たいところです。
ピアジェの研究では、赤ちゃんが実際に隠れた物を探す行動などが重要な手がかりでした。
一方、バイヤルジョンは見る時間を使いました。
つまり、そもそも測っているものの表れ方が違います。
ピアジェが主に見ていたのは、
「理解が行動としてどのように現れるか」。
バイヤルジョンが探ったのは、
「行動として探せるようになるより前にも、何らかの予想が存在するのではないか」。
そう考えると、
「どちらが完全に正しいか」
という勝負にするより、
「測り方を変えると、それまで見えなかった発達の姿が見えてきた」
と捉えたほうが、この研究の価値を理解しやすいと思います。
科学は、ときどき昔の研究を全部ひっくり返すというより、
「いや、前から見えていた景色の、奥にも道がありました」
と地図を書き足していきます。
今回も、そんな研究のひとつです。
「赤ちゃんは大人が思うより賢い」で終わるのも少しもったいない
この論文を紹介するときに、とても便利な言葉があります。
「赤ちゃんは、私たちが思っていたより賢かった」
確かに、そのニュアンスはあります。
でも、これだけで終わると少しもったいない。
なぜなら、この研究が本当に面白いのは、「赤ちゃんの能力が高かった」というだけではなく、
私たちが赤ちゃんの能力を測る方法そのものを問い直したこと
だからです。
探せない。
だから、わかっていない。
そう判断していたところへ、
「では、手を使わなくても答えられる方法を作ってみよう」
と発想を変えた。
すると、それまで見えなかった理解が見えてきた。
これは科学のおもしろさそのものです。
対象が変わったのではありません。
ものさしを変えたら、見えるものが変わった。
人間というのは、ものさしによってずいぶん違う姿を見せるものです。
一つの論文は「最後の答え」ではなく、「次の問い」の始まり
そして最後に、論文を読むときに覚えておきたいことがあります。
一つの研究で面白い結果が出たからといって、それだけで人間の発達について最終結論が出るわけではありません。
研究というのは、
「はい、答えが出ました。心理学終了です」
とはなりません。
むしろ逆です。
面白い結果が出るほど、
「じゃあ、もっと若い赤ちゃんでは?」
「箱の大きさが変わったら?」
「位置を変えたら?」
「別の実験方法でも同じ結果になる?」
「この反応は、本当に物体の存在への期待を表している?」
と、新しい疑問が増えていきます。
研究者の仕事は、疑問を減らしているようで、かなりの勢いで疑問も増産しています。
でも、それでいいのです。
科学の強さは、
「わかりました」と言えることだけではなく、「ここから先はまだわかりません」と言えること
にもあります。
今回のバイヤルジョンの研究も、
「生後3か月半で物体の永続性が完成する」
という最終回答を出した論文というより、
「赤ちゃんの理解は、私たちが行動だけを見て考えていたより、もっと早く始まっているのではないか?」
という、とても大きな問いを投げかけた研究として読むと、その価値がよく見えてきます。
だから、この論文の結果には十分驚いていい。
「赤ちゃん、そんなに早くから?」
と目を丸くしていい。
でも、そのあとにもう一言、
「では、この結果からどこまで言えるのだろう?」
と考えてみる。
その小さな一呼吸が、心理学の論文を「面白い話」から「信頼できる知識」へ変えてくれます。
甘い結果をちゃんと楽しみながら、小麦の味も忘れない。
この論文は、その読み方まで教えてくれる一枚なのだと思います。

まとめ:物体の永続性はいつから?赤ちゃんは想像より早く「見えない物」を考えている
この論文をここまで読んできて、最後に残るのは、
「生後3か月半」
という数字だけではありません。
もちろん、その月齢はかなり印象的です。
生まれてまだ数か月。
言葉も話せない。
自分で自由に移動することもできない。
そんな赤ちゃんが、目の前から見えなくなった箱について、
「見えないけど、まだそこにあるんじゃない?」
と予想していた可能性がある。
これは、やっぱり面白いです。
でも、この研究が本当に私たちに見せてくれたのは、赤ちゃんの早熟さだけではありません。
もっと大きなテーマがあります。
それは、
「人間の『わかる』は、外から見える行動よりも先に始まっていることがあるのではないか」
ということです。
赤ちゃんの「じーっ」は、ただの「じーっ」ではなかった
バイヤルジョンの研究では、赤ちゃんに質問をしたわけではありません。
隠した箱を取ってもらったわけでもありません。
研究者が見たのは、とても小さな反応です。
どちらの出来事を長く見るのか。
箱が隠れている場所でスクリーンが止まる。
これは普通。
一方で、箱があるはずなのに、スクリーンがその場所を通り抜けてしまう。
これは変です。
そして赤ちゃんは、その「変な出来事」を長く見ました。
もちろん、
「今の出来事は物理法則に反しています」
とは言いません。
でも、
じーっ。
と見る。
この「じーっ」を手がかりにすると、赤ちゃんがただ目の前の映像を受け取っているだけではなく、
「こうなるはず」
という予想を持っていた可能性が見えてきます。
言葉になる前の理解。
行動になる前の予想。
この研究がのぞこうとしたのは、そんな場所でした。
「見えない=ない」ではなかったのかもしれない
物体の永続性という言葉は、少し難しく聞こえます。
でも、意味はとても素朴です。
ボールがソファの下に入って見えなくなっても、ボールそのものが消滅したわけではない。
人が部屋から出ても、その人が世界から消えたわけではない。
見えなくなっても、存在は続いている。
私たち大人にとっては当たり前です。
しかし、この当たり前を赤ちゃんがいつ、どのように理解していくのかは、発達心理学にとって大きな問いでした。
バイヤルジョンの研究は、その理解の一部が、従来考えられていたよりも早い時期から表れている可能性を示しました。
特に生後4か月半の赤ちゃんには、隠された箱が存在し続けていることを予想していたと考えられる反応が見られました。
さらに、生後3か月半の赤ちゃんについても、一部には同じ方向の反応が見られました。
ただし、ここは大切なので最後にもう一度。
「生後3か月半で物体の永続性が完成する」と言えるわけではありません。
発達は、電源スイッチではありません。
昨日までOFF。
今日からON。
ではない。
「見えなくても存在する」と予想できる。
場所まで正確に覚えられる。
実際に探しに行ける。
物体の特徴まで使って考えられる。
こうしたいろいろな力が、少しずつ組み合わさって育っていきます。
だから今回の研究は、
「物体の永続性の完成日を決めた研究」
というより、
「その理解の芽は、思っていたよりずっと早くから見えているのでは?」
と問いかけた研究として読むのがよいでしょう。
「できない」と「わかっていない」は、同じではない
そして、この論文からぜひ持ち帰りたいのが、この視点です。
できないことと、わかっていないことは、必ずしも同じではない。
赤ちゃんは隠れた物を上手に探せなくても、その存在について何らかの予想を持っているかもしれない。
ここを見つけるために、研究者は「手で探す」という方法だけではなく、「見る時間」という別の窓を使いました。
これって、とても大事な発想だと思うのです。
私たちは普段、
話せる。
説明できる。
すぐ行動できる。
成果を出せる。
そんな「外に見えるもの」で人を判断しがちです。
でも、人の内側には、
わかっているけれど言えない。
理解しているけれど、まだできない。
感じているけれど、うまく説明できない。
そんな状態があります。
もちろん、この乳児研究が大人の職場や人間関係について直接証明したわけではありません。
そこは分けて考える必要があります。
それでも、
「見えている行動だけで、その人の中身まで決めてしまわない」
という姿勢は、この研究から持ち帰れる、とても豊かな視点だと思います。
人間は、世界を受け取るだけではなく、予想しながら生きている
もうひとつ、この研究を読んでいて面白いのは、人間がどれだけ早くから、
「世界にはこういうルールがあるはずだ」
と予想しながら生きているのか、ということです。
箱がそこにあるなら、スクリーンは通り抜けないはず。
その予想が外れたとき、赤ちゃんは長く見る。
つまり私たちは、生まれてからただ世界をぼんやり眺めているのではなく、少しずつ、
「こうなるはず」
を作っているのかもしれません。
そして世界が、
「いや、今回はこうなりました」
と返してくる。
そこで、
「え、そうなの?」
となる。
この繰り返しで、頭の中の世界地図が少しずつ書き換えられていく。
考えてみれば、大人になってからも同じです。
人はこういうものだと思っていた。
仕事はこういうものだと思っていた。
自分はこういう人間だと思っていた。
でも現実が少し違った。
そこでまた、
「なるほど。地図を描き直しますか」
となる。
人生、わりとずっと改訂版です。
もしかすると、その始まりが、生後数か月の赤ちゃんの「じーっ」の中にすでにあるのかもしれません。
見えなくなったものは、なくなったとは限らない
物体の永続性という研究テーマを、ものすごく短く言えば、
「見えなくなっても、そこにある」
という話です。
でも、この論文を読み終えるころには、この言葉が少し違って聞こえてきます。
人の理解もそうかもしれない。
成長もそうかもしれない。
努力もそうかもしれない。
外からは見えない。
まだ言葉にならない。
まだ行動には出ない。
それでも、その人の中では少しずつ育っているものがあるかもしれません。
もちろん、これは論文が直接証明した内容ではありません。
でも、赤ちゃんの見えない理解を探し続けた研究を読んでいると、そんなふうに人を見る余白を持ちたくなります。
バイヤルジョンの研究は、
「赤ちゃんは何か月から物体の永続性を理解するのか」
という問いに、新しい答えを投げかけました。
そして同時に、
「私たちは、相手がわかっていることを、本当に正しく測れているだろうか」
という別の問いまで残してくれました。
まだ話せない。
まだ探せない。
まだ説明できない。
それでも、その小さな目の奥では、
「箱、まだありますよね?」
と世界を見つめていたのかもしれない。
赤ちゃんの「じーっ」は、とても静かです。
でも、その静かな視線は、
人間の知性は、私たちが気づくより少し早く始まっているのかもしれない
と教えてくれているように思います。

あとがき
この論文を読み終えて、私の中にいちばん残ったのは、意外にも「赤ちゃんってすごい」という感想だけではありませんでした。
もちろん、すごいんです。
生後3か月半とか4か月半ですよ。
まだこちらが、
「こんにちはー」
と顔を近づけても、
「はい、どうも。最近は物体の永続性について考えていましてね」
とは返してくれない時期です。
それなのに、目の前で起きた出来事をただ眺めているだけではなく、
「いや、その箱、まだ後ろにあるでしょう」
とでも言いたげな反応を見せていたかもしれない。
人間という生き物は、思っていたよりずっと早いところから、世界に対して、
「こうなるはず」
という小さな予想を持ち始めているのかもしれません。
それだけでも十分おもしろい。
でも、私がこの論文を閉じたあとに考えていたのは、むしろ別のことでした。
私たちは普段、見えていないものを、ずいぶん簡単に「ないこと」にしているな。
ということです。
「見えない」と「ない」は、同じじゃない
今回の論文が扱っていた「物体の永続性」をものすごく簡単に言えば、
見えなくなっても、物はなくならない
という話です。
箱がスクリーンの後ろに隠れた。
見えない。
でも、まだそこにある。
大人にとっては当たり前です。
ところが論文を読んでいるうちに、私はこれが妙に人間の心の話にも聞こえてきました。
たとえば、努力。
努力って、結果が出るまではかなり見えません。
勉強している。
練習している。
考えている。
悩んでいる。
少しずつ変わっている。
でも成果になっていなければ、外から見ると、
「何も変わっていない」
ように見えることがあります。
本人だってそうです。
毎日何かを続けているのに結果が出ないと、
「これ、意味あるのかな」
と思います。
今日も昨日とほぼ同じ。
昨日も一昨日とほぼ同じ。
成長さん、どちらにいらっしゃいますか。
行方不明です。
でも、見えないからといって、本当に何も起きていないのでしょうか。
ここで私は、この赤ちゃんの研究を思い出します。
スクリーンの後ろに隠れた箱のように、
見えていないだけで、そこにあるものが人生には結構あるんじゃないか。
そんな気がするのです。
「できない人」を見るとき、私たちは少し急ぎすぎる
今回の研究でもうひとつ好きだったのが、
「探せない=わかっていない、とは限らない」
という話です。
これは刺さりました。
私たちは、人を「できたこと」で判断するのがとても得意です。
仕事ができた。
話せた。
発表できた。
資格を取った。
結果を出した。
行動に表れたものは、とても測りやすい。
だから安心します。
一方で、
うまく話せない。
動けない。
説明できない。
結果が出ない。
そんな状態を見ると、
「わかっていないのかな」
「やる気がないのかな」
「ちゃんと考えているのかな」
と判断してしまうことがあります。
でも、今回の赤ちゃんは、
「手では証明できませんけど、目では答えてます」
だったのかもしれません。
これを知ると、人を見るときに少し慎重になりたくなります。
しゃべらない人の中にも、言葉になる前の考えがあるかもしれない。
動けない人の中にも、「こうしたい」はあるかもしれない。
うまくできない人の中にも、途中まで育っている理解があるかもしれない。
もちろん、全部そうだと決めつけてはいけません。
でも、
「見えないから、ない」と結論を急がない。
そのくらいの余白は持っておきたい。
人間関係というのは、おそらくこの余白があるだけで、ずいぶん息がしやすくなります。
そして、自分を見るときにも
人に対してだけではありません。
自分自身についても、私たちはかなり結果主義です。
昨日より成長したのか。
成果は出たのか。
変われたのか。
前へ進めたのか。
数字にできる何かがないと、
「何もしていない」
ことにしてしまう。
でも、心の変化って、そんなにわかりやすくありません。
以前なら一日引きずっていたことを、半日で立て直せた。
前なら言えなかった「ちょっと疲れています」を言えた。
苦手な相手に、ほんの少しだけ自分の意見を出せた。
失敗した夜に、自分を責める時間が10分だけ短くなった。
こういうものは、人生の表彰式にはほとんど登場しません。
金メダルもありません。
新聞にも載りません。
でも、私はこういう変化こそ、かなり大事だと思っています。
見えにくい。
でも、ある。
それは、この論文でスクリーンの後ろにあった箱に少し似ています。
外から見えなくなったからといって、存在まで消えたわけではない。
成長にも、永続性みたいなものがあるのかもしれません。
昨日積み上げたものが、今日うまくいかなかったからといって全部消えるわけではない。
学んだことも。
耐えたことも。
考えたことも。
少しだけ勇気を出したことも。
目の前から見えなくなっているだけで、どこかに残っている。
私はそう考えたほうが、人は長く歩ける気がします。
「じーっ」という静かな知性
そして何より、この研究を読んでいると、赤ちゃんの「見る」という行為が、とても美しく見えてきます。
まだ言葉がない。
まだ説明もできない。
でも、世界を見ている。
箱が隠れた。
スクリーンが動いた。
おかしい。
じーっ。
たったそれだけ。
でも、その「じーっ」の中には、
予想があるかもしれない。
記憶があるかもしれない。
驚きがあるかもしれない。
世界についての理解が芽生えているかもしれない。
人間の知性というと、つい難しい言葉を操ったり、計算したり、論理的に説明したりする能力を想像します。
でも、そのずっと手前に、
「なんか変だぞ」
があります。
私はこの「なんか変だぞ」が、とても好きです。
科学も哲学も、たぶんここから始まります。
「なんで?」
「これ、本当にそう?」
「さっきと違わない?」
そういう小さな違和感を、人間はずっと追いかけてきました。
もしかすると、その原型が、生後数か月の赤ちゃんの目の中にすでにある。
そう考えると、妙に壮大です。
見えなくなったものを、もう一度信じてみる
「アドラーの昼寝」で心理学の論文を読んでいると、ときどき不思議なことがあります。
最初は、
「赤ちゃんの物体認知についての研究ですね」
という、かなり限定されたテーマだったはずなのに、読み終えるころには自分の人生の話を考えている。
今回もそうでした。
私はこの論文を読みながら、
自分の中で見えなくなったものについて考えていました。
昔持っていた自信。
途中で諦めた夢。
誰かにもらった言葉。
以前より少し成長した自分。
そういうものは、見えなくなることがあります。
目の前から消えて、
「あれはもうないのかな」
と思う。
でも、本当に消えてしまったのでしょうか。
もしかすると、スクリーンの後ろの箱みたいに、
見えなくなっただけで、まだそこにあるものもある。
人生には、そういうものが結構あるのかもしれません。
もちろん、これはバイヤルジョンの論文が証明したことではありません。
ここからは完全に、私の読書感想文です。
でも、論文というのは、研究結果だけ持ち帰らなくてもいいと思っています。
ひとつの研究を読んで、
「自分ならどう考えるだろう」
と少し遠くまで散歩してみる。
それも、心理学を読む楽しさのひとつです。
この1987年の論文を読んで、私が持ち帰った言葉は、
「見えなくなったからといって、なくなったとは限らない」
でした。
赤ちゃんの前に置かれた小さな箱。
それを見つめる、小さな目。
そして、
「そこにあるはず」
という、まだ言葉にならない予想。
人間というのは、世界が見えなくなったときにも、何かを心の中に残しておける生き物なのかもしれません。
そう考えると、
自分の中でいま見えなくなっているものにも、
もう少しだけ、
「まだそこにいる?」
と尋ねてみたくなりました。
返事はなくても。
じーっと見ていたら、
そのうち何かが、スクリーンの向こうから顔を出すかもしれません。

制作ノート
出典論文:Baillargeon, R. (1987). Object permanence in 3½- and 4½-month-old infants. Developmental Psychology, 23(5), 655–664. American Psychological Association. DOI:10.1037/0012-1649.23.5.655
掲載・確認先:Google Scholar / University of Illinois / CiNii Research
記事について:本記事は、上記論文の内容をもとに、一般の読者向けに要約・解説したものです。原文の趣旨を尊重しつつ、読みやすさを重視して再構成しています。
制作体制:本記事は、GPT-5.6 Thinking (Sol)を用いて下書きを作成したうえで、当サイト管理人・阿部牧歌が内容を確認し、表現や流れを整えながら仕上げています。機械の速さと、人の目と感覚の両方を生かしながら、読みやすく信頼できる記事づくりを目指しています。



