フィードバックはなぜ逆効果になる?注意が「自分」に向くときの落とし穴
- 「仕事の話だったはずなのに、『自分はダメだ』に変わる瞬間」
- この論文をひとことで言うと
- この論文の要点
- 研究の背景:フィードバックは本当に効果がある?「人は伸びる」という常識への疑問
- 研究方法:フィードバックの効果をどう調べた?131研究をまとめたメタ分析
- この研究でわかったこと:フィードバックは逆効果になる?3分の1超で成果が下がった研究結果
- ここが面白い:フィードバックの本当の落とし穴は「内容」より「自分を意識させること」
- 私たちの生活にどう活かせる?:フィードバックの伝え方は?「人」ではなく「次の行動」を伝えるコツ
- 少し注意したい点:「3分の1超で逆効果」をどう読む?フィードバック研究で注意したいこと
- まとめ:フィードバックは逆効果にもなる。だから「次に何をするか」を伝えよう
- あとがき
- 制作ノート
「仕事の話だったはずなのに、『自分はダメだ』に変わる瞬間」
『フィードバックは本当に成果を高めるのか?――パフォーマンスに対するフィードバック介入の効果:歴史的レビュー、メタ分析、そして予備的フィードバック介入理論』アヴラハム・N・クルーガー、アンジェロ・S・デニシ(1996)
Kluger, A. N., & DeNisi, A.(1996).
The Effects of Feedback Interventions on Performance: A Historical Review, a Meta-Analysis, and a Preliminary Feedback Intervention Theory.
Psychological Bulletin, 119(2), 254–284.
DOI:10.1037/0033-2909.119.2.254
「ここ、もう少し丁寧にやってもらえる?」
上司からそう言われたとします。
言っていることはわかります。
別に怒鳴られたわけでもありません。「あなたは仕事ができない」と言われたわけでもない。
話題はただひとつ。
「ここの仕事を、もう少し丁寧にしよう」
それだけだったはずです。
ところが、人間の心というものは、ときどき頼んでもいない出張に出かけます。
「ここを直してほしい」
という話を聞いていたはずなのに、
「つまり、自分は仕事ができないと思われているのでは?」
となり、
「そもそも自分、この仕事に向いてないのかな」
となり、
気がつけば、
「私はダメな人間なのではないか」
という、とんでもなく大きな会議が脳内で始まっていたりします。
いやいや。
最初は書類の一か所を直す話だったんです。
なぜ人生全体の反省会になっているのでしょう。
でも、こういうことは案外あります。
フィードバックは、人を伸ばすためのもの……のはず
仕事では「フィードバック」という言葉をよく聞きます。
「ここはよかったです」
「次はこうしてみましょう」
「この部分は改善したほうがいいですね」
自分では気づきにくいことを誰かに教えてもらえるのですから、基本的にはありがたい仕組みです。
スポーツでも勉強でも仕事でも、自分のやり方が合っているのかどうか、何の手がかりもないまま進むのは大変です。
ボウリングでいえば、投げた瞬間にカーテンを閉められて、
「さて、何本倒れたでしょう」
と言われながら練習するようなものです。
それでは、なかなか上達できません。
だから普通に考えれば、
フィードバックをもらう
↓
間違いに気づく
↓
修正する
↓
上達する
となりそうです。
とても筋が通っています。
ところが心理学の世界には、ときどき「その話、そんなに簡単じゃありませんよ」と、廊下の角から顔を出してくる研究があります。
今回紹介するのが、まさにそのひとつです。
1996年、心理学者のアヴラハム・N・クルーガーとアンジェロ・デニシは、フィードバックが人のパフォーマンスにどのような影響を与えるのかを、大量の先行研究をまとめて検討しました。
すると、かなり興味深い結果が見えてきました。
フィードバックは、全体として見ればパフォーマンスを高める方向に働いていました。
「ほら、やっぱりフィードバックは大事なんじゃないか」
そう思いますよね。
ところが話はそこで終わりません。
調べられたフィードバック介入のうち、3分の1を超えるケースでは、逆にパフォーマンスが低下していたのです。
人を伸ばすために伝えたはずなのに、場合によっては成績が下がる。
これはなかなか困った話です。
アクセルだと思って踏んだら、ときどきブレーキだった。
そんなことが起きていたわけです。
問題は「何を言ったか」だけではない
では、なぜ同じフィードバックでも、人を伸ばすこともあれば、逆効果になることもあるのでしょう。
クルーガーとデニシが注目したもののひとつが、その言葉によって、人の注意がどこへ向かうのかという点でした。
たとえば、
「この資料は数字の並びをそろえると、もっと見やすくなります」
と言われたとします。
これなら注意は、
「数字の並びを直そう」
と、目の前の課題に向かいやすいでしょう。
ところが、
「あなたって、こういうところ雑だよね」
と言われたらどうでしょう。
話している内容は、もともと同じ資料の修正だったはずです。
でも突然、スポットライトが資料から自分自身へ移ります。
「私は雑な人間なのか」
「評価が下がったのではないか」
「周りからもそう思われているのかな」
そうなると、頭の中では資料を直す作業より、自分を守るための会議のほうが忙しくなってきます。
仕事を改善するためにもらった言葉なのに、意識は仕事から遠ざかっていく。
なんとも皮肉な話です。
「正しいことを言えば伝わる」とは限らない
ここが、この研究のおもしろいところです。
私たちはつい、
「内容が正しければ、ちゃんと伝えたほうがいい」
と考えます。
もちろん、間違いを伝えないことがよいわけではありません。
ただ、人間はプリンターではありません。
「修正箇所:3ページ目」
と入力すれば、
「了解しました。修正します」
だけ返してくれるわけではないのです。
その言葉を、
「助けになる情報」
として受け取ることもあれば、
「自分への評価」
として受け取ることもあります。
そして、その違いによって、同じようなフィードバックでも結果が変わる可能性があります。
だから、
「フィードバックはしたほうがいいのか、しないほうがいいのか」
という二択だけでは、少し乱暴なのかもしれません。
もっと大事なのは、
その言葉によって、相手の注意はどこへ向かうのか。
仕事のやり方へ向かうのか。
次に何をすればいいかへ向かうのか。
それとも、
「自分はダメなのではないか」
という自己評価へ向かってしまうのか。
フィードバックの効果を考えるとき、そこには意外と大きな違いがあります。
この記事では、Kluger & DeNisi(1996)の有名なメタ分析を手がかりに、
「なぜフィードバックは人を伸ばすこともあれば、逆効果になることもあるのか」
を、できるだけ難しい専門用語を玄関に置いたまま、一緒に見ていきたいと思います。
あなたが誰かに何かを伝える側であっても、
誰かから評価や注意を受け取る側であっても、
「あのひと言が、なぜあんなに引っかかったんだろう」
という経験を理解する、小さな手がかりになるかもしれません。

この論文をひとことで言うと
ひとことで言えば、この論文は、
「フィードバックは、人を伸ばす魔法の言葉ではない。どこに注意を向けさせるかによって、薬にもブレーキにもなる」
という研究です。
「フィードバックって、基本的には多いほうがいいんじゃないの?」
そう思いますよね。
仕事をしたら評価をもらう。
勉強したら答え合わせをする。
スポーツならフォームを見てもらう。
自分ひとりでは気づけないことを教えてもらえるのですから、フィードバックはどう考えても「成長する側」の仲間に見えます。
ところが、クルーガーとデニシは、そこで腕を組みました。
「いや、ちょっと待ってください。本当にいつでもプラスなんでしょうか」
そこで過去の研究をたくさん集めて調べてみると、確かにフィードバックは平均的にはパフォーマンスを高めていました。
ここまでは予定どおりです。
フィードバックさん、無事に優等生。
ところが成績表をよく見ると、妙なことが書いてありました。
3分の1を超えるフィードバック介入では、むしろパフォーマンスが低下していたのです。
人をよくするために言ったのに、人がうまく動けなくなる。
「もっと頑張ってほしい」と伝えたのに、かえって仕事の出来が悪くなる。
これは、フィードバックというものが単純な栄養ドリンクではないことを意味します。
飲めば必ず元気になる、という話ではないのです。
大切なのは「何を言うか」だけではなく「どこを見せるか」
では、何が違うのでしょう。
この論文で重要になるのが、注意の向きです。
たとえば、
「この数字をもう一度確認するといいですよ」
と言われたら、
「なるほど、数字を確認しよう」
と考えやすいでしょう。
目はまだ仕事を見ています。
ところが、
「君は本当に注意力がないね」
と言われたらどうでしょう。
その瞬間、目の前にあった仕事が少しぼやけます。
代わりに頭の中へ、
「自分は注意力のない人間なのか」
「評価が悪くなったかな」
「また失敗した」
「そもそも自分は仕事ができないんじゃないか」
という人たちが、ぞろぞろ入場してきます。
会議室は満席です。
しかも肝心の「数字を確認する」という議題が、隅のほうへ追いやられています。
クルーガーとデニシが考えたのは、こういうことでした。
フィードバックによって注意が目の前の課題へ向けば、改善につながりやすい。
けれど注意が課題から離れ、自分自身や自分への評価へ強く向かってしまうと、フィードバックの効果が弱くなったり、ときには逆効果になったりする可能性がある。
つまり、
フィードバックの価値は、言葉そのものだけでは決まらない。
その言葉を聞いたあと、相手の頭の中で何が始まるかも大事なのです。
ここが、この論文の大きなポイントです。
「褒めればいい」「厳しく言えばいい」という話でもない
ここで少し注意したいことがあります。
この研究は、
「褒めるのはダメです」
とか、
「注意するのは危険です」
とか、
「部下には何も言わないのが一番です」
という研究ではありません。
そんな結論なら、上司は明日から全員、観葉植物のように静かに座っていなければならなくなります。
そうではありません。
大切なのは、
フィードバックによって、相手が何に注意を向けるようになるのか
ということです。
「次にどうすればいいか」が見えるフィードバックなら、行動の修正に使いやすい。
一方で、
「自分はダメだ」
「自分は評価されていない」
という方向へ注意が向けば、本来使うはずだった頭のエネルギーが自己評価の処理に持っていかれることがあります。
つまり、
「もっとちゃんとしなさい」
より、
「次はここを確認してみましょう」
のほうが、少なくとも相手の視線を仕事へ戻しやすい。
そんな見方ができるわけです。
フィードバックは「鏡」より「道しるべ」に近い
フィードバックという言葉を聞くと、私たちはつい「鏡」を想像します。
あなたは今こう見えていますよ。
あなたの出来はこのくらいですよ。
あなたにはここが足りませんよ。
確かに、それもフィードバックの一面です。
でも、この研究から考えるなら、もっと大切なのは道しるべとしての役割なのかもしれません。
「あなたはダメです」と現在地に赤丸をつけるのではなく、
「次はこちらへ進むとよさそうです」
と矢印を置く。
人を評価するためではなく、次の行動を見つけるために使う。
そう考えると、フィードバックの見え方が少し変わってきます。
誰かに何かを伝えるとき、
「この人に何を分からせようか」
だけではなく、
「この言葉を聞いたあと、この人の注意はどこへ向かうだろう」
と考えてみる。
クルーガーとデニシの研究は、そんな小さな問いを私たちに残してくれています。
フィードバックとは、人を動かすボタンではありません。
押せば「成長」が出てくる自動販売機でもありません。
人の注意という、少し気まぐれなスポットライトを動かすものです。
だからこそ、その光をどこに当てるのかが大切なのです。

この論文の要点
この論文のポイントを、先に3つだけ押さえておきましょう。
細かい話はあとからゆっくり見ていけば大丈夫です。
まずは、
「フィードバックって、ただ言えばいいわけじゃないんだな」
くらいの気持ちで読んでみてください。
1. フィードバックは、いつでも人を伸ばすとは限らない
フィードバックというと、なんとなく「もらえば成長できるもの」というイメージがあります。
ところがKluger & DeNisi(1996)が過去の研究をまとめて分析したところ、フィードバックは平均的にはパフォーマンスを高めていたものの、3分の1を超えるケースでは、逆にパフォーマンスが低下していました。
つまり、
「フィードバックしました。はい、成長!」
とはいかないわけです。
人間はゲームのキャラクターではないので、アドバイスを1回受けるたびに能力値が「+3」されるようにはできていません。
伝え方や状況によっては、よかれと思った言葉が、かえって目の前の仕事をやりにくくしてしまうこともあるのです。
2. 大切なのは、フィードバックによって「注意がどこへ向くか」
この論文で特に重要なのが、注意の向きです。
たとえば、
「次は、この数字を確認してみよう」
と言われれば、注意は目の前の仕事に向きやすくなります。
一方で、
「君は本当にミスが多いね」
と言われると、
「自分は仕事ができないのかな」
「評価が下がったかな」
「みんなにもそう思われているのかな」
と、注意が仕事から自分自身の評価へ移ってしまうことがあります。
数字を直すはずだったのに、いつの間にか脳内では「私という人間についての緊急会議」が始まっている。
これでは、仕事どころではありません。
クルーガーとデニシは、フィードバックによって注意が課題から離れ、自分自身へ向かうほど、パフォーマンスへの効果が弱くなりやすいと考えました。
つまり重要なのは、
「何を言ったか」だけではなく、「その言葉によって相手が何を見るようになったか」
なのです。
3. よいフィードバックは「人の評価」より「次に何をするか」を見せる
この研究から日常生活や仕事を考えるなら、フィードバックは「あなたはこういう人です」と判定するためのものではなく、次の行動を見つけるための情報として扱ったほうがよさそうです。
たとえば、
「あなたは雑ですね」
ではなく、
「提出前に数字を一度確認すると、ミスを減らせそうです」
と伝える。
前者は「あなた」という人を見ています。
後者は「次に何をするか」を見ています。
この違いは小さく見えますが、受け取る側の頭の中ではかなり違います。
フィードバックとは、相手に点数をつける赤ペンではなく、
「次はこちらですよ」と示す小さな道しるべ。
そんなふうに考えると、この論文のメッセージがぐっと身近になります。
まとめると、
① フィードバックは、必ずしもプラスになるわけではない。
② 効果を左右するカギのひとつは、相手の「注意がどこへ向くか」。
③ 人そのものを評価するより、次の行動へ注意を向けることが大切。
この3つを頭の片隅に置いておけば、これから紹介する研究の中身も、ずいぶん読みやすくなるはずです。

研究の背景:フィードバックは本当に効果がある?「人は伸びる」という常識への疑問
フィードバックというものは、昔からかなり評判のいい存在でした。
勉強なら、
「ここ、間違っていますよ」
と教えてもらえば直せる。
スポーツなら、
「もう少し肘を上げて」
と言われればフォームを修正できる。
仕事でも、
「この部分を改善すると、もっとよくなります」
と伝えてもらえば、次に生かせる。
なるほど。
こう並べると、
「フィードバックを与えれば、人は上達する」
という考えは、ほとんど当たり前に見えます。
迷子になっている人に地図を渡すようなものです。
現在地と進む方向が分かれば、目的地へ近づきやすくなる。
フィードバックも同じで、
「今どこにいるのか」
「どこが間違っているのか」
「次にどうすればいいのか」
が分かれば、当然パフォーマンスも上がりそうです。
ところが、心理学の研究を並べてみると、話はそれほど整然としていませんでした。
「効きました」「効きませんでした」「むしろ悪くなりました」
フィードバックについては、Kluger & DeNisi(1996)よりずっと前から、さまざまな研究が行われていました。
そして研究によっては、
「フィードバックを与えたら成績が上がりました」
という結果が出ます。
これはわかります。
ところが別の研究では、
「ほとんど変わりませんでした」
となる。
まあ、人間ですからね。
そういうこともあるでしょう。
さらに困ったことに、
「フィードバックを与えたら、むしろ成績が下がりました」
という結果まで出てくる。
研究者からすると、
「ちょっと待ってください」
です。
フィードバックは人を成長させるためのものだったはずなのに、なぜ成長する人と、変わらない人と、逆にうまくいかなくなる人がいるのでしょう。
たとえるなら、
「この肥料を使うと植物がよく育ちます」
と言われて使ってみたところ、
ある鉢は元気になり、
ある鉢は何も変わらず、
ある鉢では葉っぱがしょんぼりした。
そうなれば当然、
「肥料を与えること」だけを見ていても答えは出ないのでは?
と考えたくなります。
フィードバック研究も、まさにそんな状態でした。
そもそも「フィードバック」という箱が大きすぎた
もうひとつ難しかったのは、
ひとことで「フィードバック」と言っても、中身がかなり違う
ということでした。
たとえば、
「正解です」
もフィードバックです。
「前回より10点上がりました」
もフィードバック。
「ここの計算方法を変えてみましょう」
もフィードバックですし、
「君は優秀だね」
「もっと頑張りなさい」
といった言葉も、広い意味ではフィードバックとして研究されてきました。
でも、これらを全部、
「フィードバックという同じ料理です」
と一皿に盛ってしまってよいのでしょうか。
カレーとプリンを、
「どちらもスプーンで食べるので同じ料理です」
と言うくらい、少し乱暴かもしれません。
何を伝えたのか。
どのように伝えたのか。
結果だけを知らせたのか。
改善方法まで示したのか。
本人の仕事について話したのか。
本人そのものを評価したのか。
こうした違いによって、効果が変わっている可能性があります。
つまり研究者たちが本当に知りたかったのは、
「フィードバックは効くか、効かないか」だけではなかった
のです。
もっと大事なのは、
「どんなフィードバックが、どんなときに効果を持ち、どんなときには逆効果になるのか」
ということでした。
「平均すると効果あり」だけでは、現場では困る
仮に研究を全部まとめて、
「フィードバックは平均すると効果があります」
と分かったとしても、それだけでは少し困ります。
会社の上司からすれば、
「なるほど。で、明日部下にどう伝えればいいんですか?」
となります。
先生なら、
「テストを返すときに、何を書けばいいの?」
スポーツのコーチなら、
「選手には結果を言えばいいのか、方法を言えばいいのか?」
となるでしょう。
平均値は大切です。
でも人間の生活は、平均値だけでは動いていません。
たとえば、
「この薬は平均的には効きます」
と聞いたあとに知りたいのは、
「では、どんな場合に効きやすく、どんな場合に効きにくいの?」
という話でしょう。
フィードバックも同じです。
そこでKlugerとDeNisiは、過去に行われた大量の研究を集めて、
「フィードバックは全体としてどのくらい効果があるのか」
だけでなく、
「効果が大きくなったり、小さくなったりする違いはどこにあるのか」
まで調べようとしました。
ここで登場するのが、メタ分析です。
難しそうな名前ですが、やっていることのイメージはそれほど怖くありません。
ひとつの研究だけを見て、
「効いた!」
「効かなかった!」
と決めるのではなく、
たくさんの研究結果を大きなテーブルに並べて、
「全体として見ると、どうなっているんだろう?」
と調べる方法です。
いわば、研究一件一件の声ではなく、研究たちによる大合唱を聞いてみるわけです。
すると、その大合唱から思いがけない音が聞こえてきました。
フィードバックは、たしかに平均的にはパフォーマンスを高めている。
でも、
すべてのフィードバックが人を伸ばしているわけではない。
かなりの割合で、逆にパフォーマンスが低下している。
そこで次の疑問が生まれます。
「では、その違いはいったい何なのか?」
この問いこそが、Kluger & DeNisi(1996)の研究をおもしろくしている部分です。
単純に、
「フィードバックは大切です」
で話を終わらせなかった。
その言葉を受け取った人の頭の中で、何が起きているのか。
注意はどこへ向かうのか。
なぜ同じように「伝える」という行為でも、背中を押すこともあれば、足を止めることもあるのか。
この少しややこしい謎を整理するために、彼らは膨大なフィードバック研究をひとつの机の上に広げることにしたのです。

研究方法:フィードバックの効果をどう調べた?131研究をまとめたメタ分析
さて、この研究。
研究者が会社へ乗り込んで、
「今日から部下にフィードバックしてください!」
と131社を回ったわけではありません。
KlugerとDeNisiが行ったのは、それまでに発表されていたフィードバック研究をたくさん集めて、まとめて分析することでした。
こうした方法を、心理学ではメタ分析と呼びます。
名前だけ聞くと、
「メタ……何かすごい分析装置でしょうか」
という感じがしますが、考え方はわりと素朴です。
たとえば、フィードバックについて研究Aでは、
「効果がありました」
研究Bでは、
「あまり変わりませんでした」
研究Cでは、
「むしろ悪くなりました」
という結果が出ていたとします。
一つひとつだけ見ていると、
「結局どれを信じればいいの?」
となりますよね。
そこで、それらの研究をまとめて、
「全部を合わせて見ると、フィードバックにはどのくらいの効果があるのか」
を調べる。
これがメタ分析の基本的な考え方です。
言ってみれば、一人ずつに感想を聞くのではなく、研究者たちを大きな会議室に集めて、
「はい、皆さん。結局フィードバックって効くんですか?」
と一斉に答えてもらうようなものです。
131の研究から、600を超える結果を集めた
KlugerとDeNisiは、それまでに行われた研究の中から条件に合うものを集め、131の研究、607の効果量、23,000件を超える観察を分析しました。
「607の効果量」と聞くと、急に統計の先生が黒板の前に立った気配がしますが、ここでは難しく考えなくて大丈夫です。
ざっくり言えば、
「フィードバックを受けたとき、パフォーマンスがどのくらい変わったのかを比べられる形にした数字」
です。
研究によって、
テストの点数だったり、
作業の速さだったり、
仕事の正確さだったり、
測り方は違います。
そのままではリンゴとミカンを並べるような状態なので、それぞれの研究結果を比較できる共通のものさしに直して、まとめて検討したわけです。
つまりこの論文は、
「ある会社の社員20人で試したらこうなりました」
というタイプの研究ではありません。
いろいろな場所で行われてきた研究を集めて、
「フィードバック研究全体を遠くから眺めると、どんな景色が見えるのか」
を確かめた研究なのです。
「効くかどうか」だけでなく、「何が違うのか」も調べた
そして、この研究でもう一つ大事なのがここです。
KlugerとDeNisiは、
「フィードバックは平均すると効果があるのか」
だけを調べたわけではありません。
もし結果が研究によって大きく違うなら、
「その違いは、どこから来ているのだろう?」
という疑問が出てきます。
そこで、
どんなフィードバックだったのか。
何についてフィードバックしたのか。
目標との距離を知らせるものだったのか。
課題への取り組み方に注意を向けるものだったのか。
それとも本人自身へ注意を向けるようなものだったのか。
そうした条件の違いにも目を向けました。
ここが、この論文のおもしろいところです。
単純に、
「フィードバック、平均点は○点でした」
で成績表を閉じなかったのです。
むしろ、
「平均ではプラスなのに、どうして逆効果になるケースまであるの?」
という、少し厄介な部分を調べようとしました。
大量の研究を集めると、「平均」の裏側が見えてくる
メタ分析の強みは、一つの研究では見えにくい全体像を見られることです。
一つの研究だけなら、
「今回は効果がありました」
で終わるかもしれません。
でも大量の研究を並べると、
「たしかに平均ではよくなっている。でも、かなりバラついているぞ」
と気づくことがあります。
今回もまさにそうでした。
フィードバックは全体としてはパフォーマンスを高める方向に働いていました。
けれど、
「だからフィードバックをすれば大丈夫」
とは言えない結果も同時に見えてきたのです。
ここが重要です。
平均値というのは、ときどき少し澄ました顔をしています。
平均だけを見ると、
「皆さん、だいたいうまくいっていますよ」
と言ってくる。
ところが個々の結果をのぞいてみると、
「いや、私かなり下がっていますけど」
という人が混ざっている。
KlugerとDeNisiは、その「平均の後ろに隠れている違い」まで見ようとしたわけです。
ですから、この研究方法をひとことでまとめるなら、
過去のフィードバック研究を大量に集めて、全体として効果があるのか、そして効果が変わる条件は何なのかを調べた研究
ということになります。
さて。
ここまで準備したら、いよいよ気になるのは結果です。
大量の研究を一つのテーブルに並べたところ、フィードバックは本当に人を伸ばしていたのでしょうか。
答えは、
「はい。でも、それだけではありません」
でした。
そして、この「でも」の後ろに、この論文が今でも語られる理由が隠れています。

この研究でわかったこと:フィードバックは逆効果になる?3分の1超で成果が下がった研究結果
さて、131の研究をひとつの机の上に並べてみたところ、何が見えてきたのでしょうか。
まず最初にお伝えしておくと、この研究の結論は、
「フィードバックはやめましょう」
ではありません。
会議で部下に何も言わず、先生も答案を無言で返し、スポーツのコーチまで腕を組んで遠くを見る。
そんな「全員、急に無口になる世界」をすすめた研究ではないのです。
実際、KlugerとDeNisiが研究をまとめて分析したところ、フィードバック介入は平均するとパフォーマンスを高めていました。
効果量は平均でおよそ 0.41。
細かな統計の話はさておき、
「全体として見ると、フィードバックにはプラスの効果があった」
と理解しておけば大丈夫です。
ここだけなら、
「やっぱりフィードバックは大切なんですね。解散!」
となりそうです。
ところが、この論文が有名になったのは、その次でした。
平均ではよくなった。でも、3分の1超では悪くなった
個々の結果まで見てみると、3分の1を超えるフィードバック介入では、パフォーマンスが低下していたのです。
ここが、この研究のかなり意外なところです。
普通なら、
「効果が小さいこともある」
くらいを想像しますよね。
ところが、
「効果がなかった」
だけではありません。
よかれと思ってフィードバックを与えたのに、むしろ成績や作業の出来が悪くなっているケースまであった。
つまりフィードバックは、
「たくさん与えれば、そのぶん人が伸びる」
という単純なものではなかったのです。
たとえるなら、植物に水をあげるようなものかもしれません。
水は必要です。
だからといって、
「水が大切なら、バケツ3杯いっときましょう」
では困ります。
大切なのは「与えること」だけではなく、どう与えるか、何に作用しているのかなのです。
フィードバックも、どうやら同じでした。
カギになったのは「注意がどこへ向かうか」
では、なぜフィードバックによって結果が変わるのでしょうか。
KlugerとDeNisiが提示した重要な考え方が、
フィードバックによって、人の注意がどこへ向けられるのか
という点です。
人は何かをするとき、いろいろなところへ注意を向けています。
たとえば仕事なら、
「この計算方法は合っているかな」
「次はどの手順だろう」
「どこを直せばいいかな」
と、目の前の課題について考えることができます。
これは、仕事そのものへ注意が向いている状態です。
ところがフィードバックを受けた瞬間、
「自分は評価されている」
「自分は能力がないのでは」
「失敗した自分をどう見られているんだろう」
と考え始めることがあります。
すると、注意のスポットライトが、
「どうすれば課題をうまくできるか」
から、
「自分はどんな人間なのか」
へ移っていきます。
これが厄介なのです。
たとえば資料の数字を一か所間違えたとします。
本来なら、
「数字を確認して直す」
という、かなり小さな問題です。
ところがフィードバックによって、
「自分は仕事ができないのでは」
という話になった瞬間、問題のサイズが急に膨らみます。
数字ひとつの話だったのに、いつの間にか「私の能力について」という巨大プロジェクトが立ち上がっている。
しかも責任者も議事録係も自分です。
忙しい。
これでは、目の前の課題に使える注意が減ってしまっても不思議ではありません。
フィードバックは「自分」より「課題」に近いほど働きやすい
KlugerとDeNisiは、フィードバックの効果を説明するために、注意にはいくつかの段階があると考えました。
ものすごく簡単にすると、
自分自身
↓
目標や課題
↓
具体的な作業方法
というように、注意する対象には違いがあります。
たとえば、
「あなたは優秀ですね」
と言われれば、注意は比較的「自分自身」に向きやすい。
一方、
「この問題は正解です」
なら、注意は課題に近くなります。
さらに、
「ここの計算手順を変えると解きやすくなります」
なら、具体的な作業方法へ注意を向ける情報になります。
そして彼らの分析では、フィードバックによって注意が課題そのものから離れ、自分自身に近いところへ向くほど、パフォーマンスへの効果が弱くなる傾向が示されました。
ここは重要です。
この論文は、
「厳しいことを言うとダメ」
と言っているわけではありません。
反対に、
「褒めれば必ず伸びる」
と言っているわけでもありません。
ポイントは、言葉がポジティブかネガティブかだけではなく、
その言葉が、相手の注意をどこへ連れていくのか
なのです。
「あなたはすごい」でも、いつでも万能とは限らない
ここで少し面白いことが見えてきます。
私たちはフィードバックというと、
「悪いところを指摘すると落ち込むから、褒めればいい」
と考えたくなります。
もちろん、肯定的な言葉は人間関係にとって大切です。
ただし、この研究から考えると、
ポジティブな言葉なら自動的にパフォーマンスが上がる
とも言い切れません。
なぜなら、
「あなたは本当に優秀ですね」
という言葉も、「あなた」という人そのものへ注意を向ける可能性があるからです。
そうなると、
「次に何をすればいいか」
より、
「優秀な自分でいなければ」
「失敗したら評価が変わるかな」
ということを考え始める場合もあります。
つまりフィードバック界には、
「褒める派」と「厳しくする派」だけでは解けない問題
があったのです。
大切なのは、もっと地味なところにあります。
相手が次の一歩を見つけられるかどうか。
「私はダメだ」
ではなく、
「では、次はここを変えてみよう」
と思えるかどうか。
その違いです。
いちばん意外なのは「フィードバックそのもの」が善でも悪でもなかったこと
この研究でいちばん意外なのは、
フィードバックが単純に「良いもの」でも「悪いもの」でもなかったこと
ではないでしょうか。
平均だけ見れば、効果があります。
でも、一部では逆効果になります。
同じ「フィードバック」という名前で呼ばれていても、その働き方はずいぶん違う。
だから、
「フィードバックは必要ですか?」
という質問だけでは足りません。
もう一歩進んで、
「どんなフィードバックが、その人の注意をどこへ向けるのか?」
と考える必要があります。
これは仕事でも、教育でも、人間関係でもかなり大切な視点です。
誰かが失敗したとき、
「あなたはいつもこうだよね」
と言えば、その人の視線は「自分」に向きやすくなります。
でも、
「今回はここで間違えたみたい。次はここを確認しよう」
なら、視線をもう一度「課題」に戻しやすい。
前者は、人にスポットライトを当てる。
後者は、次の行動に懐中電灯を向ける。
この違いは、ほんのひと言の差に見えます。
けれどKlugerとDeNisiの研究が示したのは、その小さな注意の向きが、フィードバックの効果を左右する重要な手がかりになるということでした。
フィードバックは、人を採点するためだけの言葉ではありません。
うまく使えば、
「あなたは何点です」
ではなく、
「次は、こちらへ進めそうですよ」
と伝える道しるべになります。
そしてどうやら、人は自分という大きな問題について考えさせられるより、目の前の小さな一歩が見えたときのほうが、動きやすいのかもしれません。

ここが面白い:フィードバックの本当の落とし穴は「内容」より「自分を意識させること」
この論文を読んでいて、いちばん「へえ」と思うところはどこでしょう。
「フィードバックの3分の1以上が逆効果だったこと?」
もちろん、それもかなり驚きです。
でも私は、この研究のもっと面白いところは、
「何を言われたか」だけではなく、「言われたあと、どこに注意が向いたか」が大事だった
という発想にあると思います。
これは、なかなか深い話です。
私たちは誰かにアドバイスするとき、どうしても「言葉の中身」を考えます。
「もっと優しく言ったほうがいいかな」
「いや、ここは厳しく言わないと伝わらない」
「まず褒めてから改善点を言おう」
なるほど。
どれも大切そうです。
でもKlugerとDeNisiの研究を通して見ると、もうひとつ質問が増えます。
「その言葉を聞いたあと、相手は何について考え始めるだろう?」
ここです。
仕事の話をしていたはずなのに、突然「私」の話になる
たとえば、あなたが会社で資料を作ったとします。
上司が言います。
「この表、数字が少し見づらいね」
これなら、
「なるほど。表を直そう」
で済むかもしれません。
頭の中のスポットライトは、まだ資料を照らしています。
ところが、こんな言われ方をしたらどうでしょう。
「こういう細かいところ、本当に苦手だよね」
ピッ。
スポットライト移動。
資料から自分へ。
「そうか。私は細かい仕事が苦手なんだ」
そこから、
「前にもミスしたしな」
「もしかして向いてないのかな」
「上司から能力が低いと思われている?」
「そういえば先週の会議でも……」
待ってください。
表はどこへ行った。
さっきまでセルの幅を直す話だったのに、気がつけば自分の職業人生について考えています。
これが人間の頭のおもしろいところであり、少々困ったところでもあります。
たったひとつの指摘から、
「作業をどう直すか」
ではなく、
「自分はどんな人間なのか」
へ話が大きくなってしまうことがあるのです。
問題は「傷つくこと」だけではない
ここでさらに面白いのは、
「自分を意識させるフィードバックがよくないのは、傷つくからでしょ?」
だけでは終わらないところです。
もちろん、傷つくことはあります。
でもこの論文の視点は、もう少し機械仕掛けです。
人間が一度に向けられる注意には限りがあります。
目の前の仕事について考えているときは、
「どこを直そう」
「次は何をしよう」
「このやり方で合っているかな」
という処理に頭を使えます。
ところが、
「私は評価されている」
「自分は能力がないのでは」
「失敗した自分をどう思われただろう」
という方向に注意を持っていかれると、それだけ目の前の課題へ使える注意が減ってしまうことがあります。
つまり、
落ち込んだから仕事ができなくなる
というだけではなく、
そもそも仕事について考えていた頭が、自分について考える頭へ切り替わってしまう
という見方ができるわけです。
これはちょっと面白くないでしょうか。
脳の中で部署異動が起きています。
さっきまで「業務改善課」にいた人たちが、突然全員「自分について考える課」へ異動してしまう。
そして業務改善課には誰もいなくなる。
机だけあります。
だから「褒めれば解決」でもない
さらに、この考え方を進めると、ちょっと困ったことが起こります。
では、相手を傷つけないように、
「あなたは本当に優秀ですね!」
と褒めればいいのでしょうか。
これも単純ではありません。
なぜなら、
褒め言葉であっても、注意を「自分自身」に向けることがある
からです。
「私は優秀なんだ」
と思う。
ここまでは悪くなさそうです。
でもその次に、
「じゃあ失敗できないな」
「優秀だと思われ続けなきゃ」
「次に間違えたらどう思われるだろう」
となれば、やはり注意は課題から離れていきます。
もちろん、これは「褒めてはいけない」という意味ではありません。
人から認めてもらえることはうれしいですし、人間関係に温かい言葉は必要です。
ただ、
「褒める=必ずパフォーマンスが上がる」
というほど、人間は単純な装置ではないらしい。
ここが面白いところです。
「叱る派」と「褒める派」がリングの上で戦っている横を、KlugerとDeNisiが通り過ぎながら、
「すみません。そこじゃなくて、注意がどこに向いているかを見ませんか?」
と言っている。
そんな研究に見えてきます。
「あなたは○○だ」より、「次は○○しよう」
この考え方は、日常のフィードバックにもかなり使えます。
たとえば、
「あなたはミスが多い」
と言う。
これは、その人自身についての文章です。
主語が「あなた」になっています。
一方、
「提出前に、この3か所を確認してみよう」
なら、話題は行動です。
あるいは、
「接客が苦手だね」
より、
「次は最初に相手の希望を聞いてみよう」
のほうが、次の行動が見えます。
前者は、
「あなたは何者か」
について語っています。
後者は、
「次に何をするか」
について語っています。
人間について語り始めると、話はすぐ巨大化します。
「雑な人」
「仕事ができない人」
「コミュニケーションが苦手な人」
「気が利かない人」
こうした言葉は便利です。
便利だからこそ怖い。
本当は、
「今回、この確認を忘れた」
という一回の出来事だったのに、
いつの間にか、
「あなたは確認を忘れる人です」
という人物紹介になってしまうからです。
プロフィール欄まで書かなくていいのです。
必要なのは、次の一歩かもしれません。
人間は「自分」というテーマを渡されると、話が大きくなりやすい
考えてみれば、「自分」というテーマは大きすぎます。
仕事のミスなら、直せる場所があります。
数字を確認する。
メモを取る。
手順を変える。
誰かに確認する。
具体的です。
でも、
「自分はダメなのか?」
という問いには、どこを修正したらいいのか分かりません。
ネジの位置が見つからないのです。
だから考え続けます。
昔の失敗まで倉庫から持ってきます。
「あのときもそうだった」
「昔からこういうところがある」
「やっぱり私は……」
脳は突然、頼んでもいない総集編を放送し始めます。
しかし、今必要だったのは、
明日の書類で数字を一度確認すること
だったりします。
人生全体を再評価する必要はありません。
この論文を日常の言葉に訳すなら、
「問題を大きくしすぎない」
ということなのかもしれません。
その人全体を議題にしない。
性格まで話を広げない。
過去の失敗を全員集合させない。
目の前の課題を、目の前の課題のサイズで扱う。
これはフィードバックをする側だけでなく、受ける側にとっても役に立つ考え方です。
フィードバックを受ける側にも使える
たとえば誰かに、
「ここをもう少し丁寧にして」
と言われたとき、
心の中で、
「自分は仕事ができない」
まで話が大きくなっていることに気づいたら、
いったん戻してみる。
「いや、今回言われたのは“ここを丁寧にする”だった」
それだけです。
「私の価値についての国民投票」が始まったわけではありません。
今回の作業について、改善点がひとつ見つかった。
まずはそこまで。
もちろん、実際には冷たい言い方をされたり、不当に人格を否定されたりすることもあります。
そういう場合まで、
「気にせず課題だけ見ましょう」
と言いたいわけではありません。
ただ、普通の仕事上のフィードバックであれば、
「これは私という人間への判決ではなく、目の前の仕事についての情報だ」
と戻してあげるだけでも、少し受け取り方が変わるかもしれません。
フィードバックとは「評価」より「視線の案内」なのかもしれない
この論文を読んだあとでは、フィードバックのイメージが少し変わります。
フィードバックとは、
「あなたは何点です」
と採点するものだけではない。
むしろ、
相手の視線をどこへ向けるか
という働きを持っています。
自分自身へ向けることもできる。
失敗へ向けることもできる。
目標へ向けることもできる。
次の行動へ向けることもできる。
言葉はスポットライトなのです。
だからフィードバックするとき、
「何を言おう?」
と考えるだけではなく、
もうひとつ、
「この言葉で、相手にはどこを見てもらいたいんだろう?」
と考えてみる。
相手自身を見てもらいたいのか。
過去の失敗を見てもらいたいのか。
それとも、
次にできる小さな行動を見てもらいたいのか。
この問いをひとつ加えるだけで、フィードバックは「人を評価する言葉」から、
「次の一歩を一緒に照らす言葉」
へ変わっていきます。
人は、スポットライトを浴びせられると固まることがあります。
でも足元を照らしてもらえば、次の一歩を見つけられることがあります。
KlugerとDeNisiの研究のおもしろさは、
「もっと褒めましょう」
でも、
「もっと厳しくしましょう」
でもありません。
「人を見すぎず、その人が次にできることを見てみませんか」
と、フィードバックを見る角度そのものを少しずらしてくれたところにあるのだと思います。

私たちの生活にどう活かせる?:フィードバックの伝え方は?「人」ではなく「次の行動」を伝えるコツ
では、この研究を私たちの生活に持ち帰ると、何ができるのでしょうか。
まず、
「フィードバックは逆効果になることがあるのか。では、もう誰にも何も言わないでおこう」
となる必要はありません。
それはそれで職場も家庭も、かなり静かになります。
上司は無言。
部下も無言。
家族も無言。
夕食の味が濃くても全員が黙って味噌汁を飲む。
平和なのかどうか、だんだん分からなくなってきます。
Kluger & DeNisi(1996)の研究から考えたいのは、「フィードバックをするか、しないか」ではありません。
大事なのは、
その言葉によって、相手の注意をどこへ向けるか
です。
そこで日常では、ひとつシンプルな考え方が使えます。
「人」を評価するのではなく、「次の行動」を伝える。
これだけでも、フィードバックの景色はずいぶん変わります。
「あなたは○○だ」を、少し減らしてみる
たとえば職場で、部下や同僚が確認ミスをしたとします。
そこで、
「あなたは本当に確認が雑だね」
と言えば、話の中心は「あなた」です。
受け取った側も、
「自分は雑な人間なんだ」
「仕事ができないと思われているのかな」
と、自分自身について考え始めるかもしれません。
では、
「次から提出前に、この3か所を確認してみよう」
ならどうでしょう。
今度は話の中心が、
「次に何をするか」
になります。
言われた側も、
「なるほど。この3か所を確認すればいいのか」
と動きやすくなります。
比べてみると、こんな感じです。
「あなたは話を聞かない」
ではなく、
「相手が話し終わってから返事をしてみよう」
「あなたは時間にルーズだ」
ではなく、
「次は開始10分前を目安に着くようにしよう」
「説明が分かりにくい」
ではなく、
「最初に結論を一文で伝えてから説明してみよう」
どちらも改善を求めています。
でも前者は「人」について語り、後者は「行動」について語っています。
ここにはかなり大きな違いがあります。
「あなたは○○な人だ」と言われても、何を修理すればいいのか分かりません。
でも、
「次はこれをしよう」
なら、修理する場所が見えます。
人間そのものを工場へ持ち込まなくていいのです。
直すのは行動ひとつでいい。
「何がダメだった?」より「次は何をする?」
これは、自分自身へのフィードバックにも使えます。
私たちは失敗すると、自分への言葉が急に厳しくなることがあります。
「また失敗した」
「自分は本当にダメだ」
「昔からこうなんだよな」
一回のミスだったはずなのに、いつの間にか過去20年分の資料が会議室に運び込まれます。
誰が頼んだのでしょう。
そこで、問いを少し変えてみます。
「自分はなぜダメなんだ?」
ではなく、
「次は何を変えればいい?」
と考える。
たとえば、
「また忘れ物をした。自分はだらしない」
ではなく、
「次は玄関に置いておこう」
にする。
「会議でうまく話せなかった。自分はコミュニケーション能力がない」
ではなく、
「次は最初に結論をメモしておこう」
にする。
これは、自分を甘やかすこととは違います。
むしろ逆です。
「私はダメだ」と大きな判決を出すより、
次に変えられる行動をひとつ決めるほうが、ずっと具体的です。
反省というと、眉間にしわを寄せて深く落ち込むことのように思えます。
でも本来、反省の目的は自分を小さくすることではなく、次の一手を見つけることです。
できていることも「行動」で伝える
ここで忘れたくないのが、フィードバックは改善点だけではないということです。
よかったところを伝える場合にも、同じ考え方が使えます。
たとえば、
「あなたは優秀ですね」
もうれしい言葉です。
でも、
「今日の説明、最初に結論を伝えていたから、とても分かりやすかったです」
と言われたらどうでしょう。
何がよかったのかが分かります。
すると本人は、
「なるほど。次も最初に結論を伝えよう」
と再現できます。
つまり肯定的なフィードバックでも、
人を褒めるだけでなく、よかった行動を見つけて伝える
という方法があります。
「さすが!」
だけでもうれしい。
でも、
「質問されたとき、一度相手の話を最後まで聞いてから答えていたのがよかった」
なら、次につながります。
褒め言葉が拍手で終わらず、小さな取扱説明書になるわけです。
職場では「人格評価」と「業務の改善」を分ける
職場では特に、
「人」と「仕事」がくっつきやすいものです。
ミスをすると、
「注意力がない」
話すのが苦手だと、
「コミュニケーション能力が低い」
仕事が遅いと、
「要領が悪い」
私たちはすぐ、人に名札をつけたくなります。
でも、その名札は意外と役に立ちません。
「要領が悪い」と言われた本人が、
「承知しました。では明日から要領を12%改善します」
とはなかなかなりません。
抽象的すぎるのです。
それより、
「この作業は最初に全部印刷するより、10件ずつ処理したほうが早そうです」
のほうが動けます。
だから職場でフィードバックするときは、
事実 → 改善できる行動 → 次に試すこと
くらいに分けてみると分かりやすくなります。
たとえば、
「今日の提出書類で数字の入力ミスが2か所あったよ。次から提出前に合計欄だけもう一度確認してみよう」
これなら、
「あなたはミスが多い」
という人物評にしなくても、必要なことは伝わります。
話を大きくしない。
今回の問題を、今回の問題の大きさで扱う。
これは案外、大切な技術です。
家族やパートナーにも同じことが言える
この考え方は、職場だけの話ではありません。
家庭では、もっと簡単に「あなたは○○」が飛び交います。
「あなたって本当に話を聞かないよね」
「いつも片づけないよね」
「本当に気が利かない」
こうなると、話し合いの議題は皿洗いだったはずなのに、
「私という人間は気が利くのか、利かないのか」
という壮大な裁判になります。
そしてだいたい、
「そっちだって」
という弁護側の反撃が始まります。
皿はまだシンクにあります。
そこで、
「食べ終わったら、お皿を台所まで持っていってくれると助かる」
と行動に戻してみる。
あるいは、
「私が話しているとき、スマホを置いて聞いてもらえるとうれしい」
と具体的にする。
もちろん、それだけで人間関係の問題が全部解決するわけではありません。
でも、
相手の人格について争うより、具体的な行動について相談するほうが、出口を見つけやすい
ことはあります。
「あなたは冷たい人だ」
となると巨大な問題です。
でも、
「帰ってきたときに一言声をかけてほしい」
なら、できることが見えます。
フィードバックを受けたときは「判決」と「情報」を分けてみる
もうひとつ、この研究はフィードバックを受ける側にも役立ちます。
誰かに、
「ここを直してください」
と言われたとき、
頭の中で、
「つまり、自分はダメだと思われている」
に変換していないか。
少しだけ確認してみるのです。
たとえば、
上司:「この資料、もう少し短くしてもらえる?」
頭の中の翻訳機:
「あなたの文章力は不足しています」
いや、そこまで言っていません。
翻訳機が仕事をしすぎています。
もちろん、本当に人格を否定するような言い方をされた場合まで、「気にしないようにしましょう」と片づける必要はありません。
ただ、仕事上の普通の改善点なら、
「これは私という人間への評価ではなく、この仕事についての情報だ」
と分けてみることができます。
「私はダメ」
ではなく、
「この資料は短くしたほうがいい」。
主語を戻すわけです。
自分から資料へ。
人格から行動へ。
人生全体から、今日の一件へ。
この戻し方を知っているだけでも、フィードバックを受けたあとに脳内会議が長引きにくくなるかもしれません。
明日から使うなら、このひとことを覚えておく
Kluger & DeNisi(1996)の論文は、具体的な「正しいフィードバック文例集」を検証した研究ではありません。
ですから、
「この言い方なら必ず相手が伸びます」
とまでは言えません。
でも、この研究から日常へ持ち帰れる大事な視点があります。
誰かに何かを伝える前に、
「この言葉は、相手の注意をどこへ向けるだろう?」
と一度考えてみることです。
「自分はダメだ」
へ向けるのか。
「失敗した」
だけに向けるのか。
それとも、
「次はこれをやってみよう」
へ向けるのか。
フィードバックの目的は、相手を言い負かすことでも、こちらの正しさを証明することでもありません。
できれば、相手が次の一歩を見つけられることです。
だから、
「あなたはどういう人か」を語るより、「次に何ができるか」を一緒に見る。
それだけでも、言葉の役割は少し変わります。
採点する赤ペンから、
足元を照らす懐中電灯へ。
フィードバックというものは、もしかするとそれくらいの距離感がちょうどいいのかもしれません。

少し注意したい点:「3分の1超で逆効果」をどう読む?フィードバック研究で注意したいこと
ここまで読んで、
「なるほど。フィードバックは3分の1くらい逆効果になるのか」
と思った方がいるかもしれません。
ちょっと待ってください。
ここは、この論文を読むうえでかなり大切なところです。
「3分の1を超えるフィードバック介入でパフォーマンスが低下した」
という結果は、
「あなたが誰かにフィードバックすると、3回に1回は失敗します」
という意味ではありません。
スーパーのポイントカードのように、
「フィードバック3回につき、逆効果1回プレゼント」
という仕組みではないのです。
研究の数字というのは、便利です。
でも便利だからこそ、ときどき数字だけが一人で走っていきます。
ここでは少し追いかけて、襟首をつかんでおきましょう。
「3分の1」は、日常会話の成功率ではない
KlugerとDeNisiが調べたのは、一人の上司が一人の部下に何回フィードバックしたか、という話ではありません。
過去に行われた多くの研究を集め、その中で得られたフィードバック介入の効果をまとめて分析しています。
その結果、全体としてはフィードバックにプラスの効果が見られました。
一方で、分析された効果のうち3分の1を超えるものでは、パフォーマンスが下がる方向の結果が見られました。
ここから言えるのは、
「フィードバックは、いつでも自動的にプラスになるわけではない」
ということです。
でも、
「フィードバックの成功率は約66%です」
とは言えません。
研究で扱われた課題も、フィードバックの内容も、状況もさまざまだからです。
たとえば、
テストの結果を知らせることと、
職場で上司が部下に改善点を伝えることと、
スポーツでコーチがフォームを修正すること。
全部「フィードバック」と呼べますが、同じ場面ではありません。
ですから、この数字は、
「フィードバックには逆効果になる場合もかなりある。だから条件をちゃんと見よう」
という警報ベルとして読むのがよさそうです。
「3回に1回」という占いにする数字ではありません。
「厳しいフィードバックがダメ」と決まったわけでもない
もうひとつ注意したいのが、
「なるほど。ネガティブなことを言うから逆効果になるんだ」
と単純に考えないことです。
たしかに、
「なんでこんなこともできないの?」
と言われれば、仕事どころではなくなる人もいるでしょう。
しかし、この論文が面白いのは、
単純に「ポジティブならよい」「ネガティブなら悪い」とは整理できなかった
ところにあります。
だからこそKlugerとDeNisiは、
「言葉がプラスかマイナスか」
だけではなく、
フィードバックによって注意がどこへ向けられるのか
という考え方を持ち出しました。
厳しい指摘でも、
「ここを修正すればよくなる」
と課題へ注意が向く場合があります。
逆に褒められても、
「優秀な自分でいなければ」
と自分自身への意識が強くなることも考えられます。
人間は、
「褒めるボタンを押せば能力+5」
という設計にはなっていないわけです。
残念ながら説明書もついていません。
「課題に注意を向ければ必ず成功」でもない
ここまでの記事では、
「自分自身ではなく、課題や次の行動へ注意を向ける」
という話をしてきました。
すると今度は、
「わかりました。では課題に注意を向けるフィードバックなら絶対に大丈夫ですね」
と言いたくなります。
しかし、ここでも少しブレーキです。
KlugerとDeNisiが提示したフィードバック介入理論は、論文タイトルそのものにあるように予備的な理論です。
つまり著者たち自身も、
「これでフィードバックの謎はすべて解けました。閉店です」
とは言っていません。
フィードバックの効果は、
どんな課題なのか、
どんな目標を持っているのか、
本人がその課題についてどのくらい知っているのか、
フィードバックによって何に注意が向けられるのか、
など、さまざまな条件と関係している可能性があります。
そして著者たちも、課題の特徴によって効果が変わる部分には、まだよく分かっていないところがあると述べています。
心理学は、ときどきここがいいところです。
「わかりました!」
と言った次のページで、
「ただし、まだわからないことがあります」
と戻ってくる。
少々じれったい。
でも、人間について研究しているのですから、それくらいが自然なのかもしれません。
1996年の研究を、そのまま「現代の職場マニュアル」にしない
もうひとつ覚えておきたいのは、この論文が1996年に発表された研究だということです。
もちろん古いから価値がない、という意味ではありません。
むしろKluger & DeNisi(1996)は、その後のフィードバック研究でも繰り返し参照される重要な研究です。
ただし、この論文は、
「2026年の日本企業で、部下との1on1はこの順番で話してください」
という研究ではありません。
ここは大切です。
研究から、
「人格より行動に目を向けたほうがよさそうだ」
「相手の注意がどこへ向かうか考えてみよう」
という視点を得ることはできます。
でもそこから、
「したがって職場では必ずこのセリフを使えば成功する」
まで飛んでしまうと、橋を渡るどころか橋からジャンプしています。
研究はヒントにはなります。
でも、現実では、
相手との関係、
職場の文化、
伝えるタイミング、
問題の重大さ、
本人の経験、
そして何より、目の前にいるその人の受け止め方があります。
論文から日常へ持って帰るときは、少し余白を残しておいたほうがよいでしょう。
フィードバックだけで、人の成長すべてを説明することもできない
人が仕事で伸びる理由は、フィードバックだけではありません。
経験すること。
練習すること。
休むこと。
周囲から支えてもらうこと。
仕事そのものを理解すること。
失敗して試し直すこと。
本人の意欲や目標。
使える時間や環境。
いろいろなものが絡み合っています。
ですから、
「フィードバックの仕方さえ変えれば、誰でも伸びる」
という話でもありません。
もし部下がうまく仕事をできていないとき、
言葉のかけ方だけを延々と改良しても、
そもそも仕事量が多すぎたり、
説明を受けていなかったり、
必要な道具がなかったりすれば、
そこを直したほうが早いでしょう。
泳ぎ方を丁寧にフィードバックする前に、
プールに水が入っているか確認したほうがいい場合もあります。
人のパフォーマンスは、本人への言葉だけでできているわけではないのです。
それでも、この研究が教えてくれることは大きい
ここまで注意点を並べると、
「じゃあ、この研究から結局何が言えるの?」
と思うかもしれません。
でも、研究の価値は、
「すべてを説明できること」
ではありません。
Kluger & DeNisi(1996)が残した大きな問いは、とてもシンプルです。
「フィードバックは、与えれば自動的に人を伸ばすものではない」
そして、
「その言葉によって、相手の注意がどこへ向くのかを考える必要がある」
ということです。
これは十分に大きな発見です。
それまで、
「フィードバックは大切です」
で終わりそうだった話に、
「どんなフィードバックでも?」
「どんなときでも?」
「その人は、言われたあと何について考えている?」
という問いを持ち込んだ。
研究というものは、ときどき答えより、いい疑問を置いていってくれるものです。
この論文も、そんな一冊ならぬ一篇なのだと思います。
だから私たちも、
「研究で証明された正しいフィードバックを実践しなければ」
と肩に力を入れなくて大丈夫です。
誰かに言葉を渡すとき、
ほんの少しだけ、
「これは相手を評価する言葉になっていないかな」
「次に何をすればいいか、見える言葉になっているかな」
と考えてみる。
そのくらいからで十分です。
心理学の研究は、人間を説明書どおりに動かすためのものではありません。
むしろ、
人間は説明書どおりには動かないから、少し丁寧に見てみよう。
この論文の注意点まで含めて読むと、そんな姿勢が見えてくるように思います。

まとめ:フィードバックは逆効果にもなる。だから「次に何をするか」を伝えよう
フィードバックという言葉には、なんとなく「良いもの」という響きがあります。
誰かから意見をもらう。
改善点を教えてもらう。
できているところを認めてもらう。
そして、少しずつ成長していく。
とてもきれいな話です。
ところがKluger & DeNisi(1996)の研究は、そのきれいな一本道の途中に、
「すみません、この道、ときどき逆方向にも進みます」
という看板を立てました。
多くの研究をまとめてみると、フィードバックは平均的にはパフォーマンスを高めていました。
けれど、すべてがそうだったわけではありません。
3分の1を超えるフィードバック介入では、パフォーマンスが低下する方向の結果が見られました。
だからといって、
「フィードバックは危険です」
という話ではありません。
むしろ、この研究が教えてくれたのは、
フィードバックは、それ自体が善でも悪でもない
ということなのだと思います。
大切なのは、その言葉が人の注意をどこへ連れていくのか。
そこでした。
仕事の話は、仕事の大きさで終わらせていい
たとえば仕事でミスをしたとき、
「あなたは注意力がない」
と言われれば、問題は一気に「自分」という大きなテーマになります。
でも、
「次は提出前に、この数字を確認しよう」
なら、問題はまだ目の前の仕事の中にあります。
この違いは小さく見えます。
けれど、受け取る側の頭の中では、
「自分はダメなのか」
と考えるのか、
「次はここを直せばいい」
と考えるのかという、かなり大きな違いになります。
一回のミスについて話していたはずなのに、
「昔から自分はこうだった」
「やっぱりこの仕事には向いていない」
「そもそも自分には能力が……」
と、人生総集編を始めなくてもいいのです。
今日のミスは、今日のミス。
直すところが一つなら、直すところも一つでいい。
研究の話から少し離れますが、これは案外、人に優しい考え方だと思います。
「あなたはどういう人?」より「次に何をする?」
誰かにフィードバックするとき、私たちはつい人物評をしてしまいます。
「真面目だね」
「雑だね」
「気が利くね」
「コミュニケーションが苦手だね」
こういう言葉は便利です。
短い言葉で、その人を説明したような気持ちになれるからです。
でも人間は、そんなに小さなラベルには入りません。
それより、
「今日の説明は、最初に結論を言っていたから分かりやすかった」
「次は、提出前に数字を一度確認してみよう」
と、実際の行動へ戻してみる。
そうすると、フィードバックが「あなたは何者かを判定する言葉」ではなくなります。
代わりに、
「次にどう動けばいいかを考えるための情報」
になります。
ここまでの記事で何度も登場した「注意の向き」という考え方を、日常語に訳すなら、これくらいで十分なのかもしれません。
人を見すぎず、次の一歩を見る。
それだけです。
フィードバックを受ける側も、主語を戻してみる
この研究は、何かを伝える側だけの話ではありません。
言われる側にも、ひとつ持ち帰れるものがあります。
誰かから、
「この部分を直してください」
と言われたとき、
頭の中で、
「私はダメだ」
に変換されていないでしょうか。
もしそうなっていたら、少しだけ主語を戻してみます。
「私がダメ」
ではなく、
「この部分を直す」。
「私は仕事ができない」
ではなく、
「今回はここでミスをした」。
「私はコミュニケーション能力がない」
ではなく、
「今回は説明が長くなった」。
人間全体から、出来事へ。
人格から、行動へ。
人生から、今日へ。
それだけでも問題は少し小さくなります。
もちろん、本当に人格を否定されたり、理不尽な言葉を投げられたりしたときまで、「気にしなければいい」という話ではありません。
でも、普通の改善点まで自分の存在価値に変換する必要はありません。
書類の間違いについて言われたなら、書類を直せばいい。
人生まで修正液で塗る必要はないのです。
フィードバックは「判決」ではなく「道しるべ」にできる
Kluger & DeNisi(1996)は、
「このセリフを使えば、必ず人が伸びます」
という便利なマニュアルを作ったわけではありません。
むしろ、この論文が示したのは、人間へのフィードバックがそれほど単純ではないということでした。
平均では効果がある。
でも逆効果になることもある。
褒めればすべて解決するわけでもない。
厳しく言えば成長するわけでもない。
そして、その違いを考えるうえで、
「相手の注意がどこへ向くのか」
という視点が重要になる。
この少し複雑な結論こそ、この研究の価値なのだと思います。
私たちは、ときどき誰かを変えようとして言葉を使います。
もっと頑張ってほしい。
同じ失敗をしてほしくない。
少しでも成長してほしい。
だから、つい相手自身について語りたくなる。
「あなたはもっとこうならないと」
と。
でも本当に必要なのは、
その人という巨大な存在を修理することではなく、
次の一歩が少し見えやすくなること
なのかもしれません。
「あなたはダメだ」
ではなく、
「次はここを見てみよう」。
「どうしてできないの?」
ではなく、
「どこでつまずいたんだろう」。
「もっとちゃんとして」
ではなく、
「次は何を変えたらやりやすそう?」
フィードバックを、相手に下す判決から、次の方向を示す道しるべへ。
ほんの少し役割を変えてみる。
それだけで、言葉の届き方も変わるかもしれません。
人には、採点表より道しるべを。
「あなたはこういう人だ」より、
「次は、ここから進んでみよう」
を。
KlugerとDeNisiの研究は、フィードバックという何気ない言葉の中に、そんな小さな分かれ道があることを教えてくれています。

あとがき
この論文を読んでいて、私は何度か、
「人間って、めんどくさいなあ」
と思いました。
もちろん、悪い意味ではありません。
でも本当に、めんどくさい。
「ここを直したほうがいいですよ」
と言われたら、
「なるほど、直します」
で終われば話は早いのです。
ところが人間には、記憶があります。
自尊心があります。
過去の失敗があります。
相手との関係があります。
その日の機嫌もあります。
そして何より、
言われたこと以上のことを考える才能があります。
「ここを直して」
と言われただけなのに、
「自分は評価されていないのかな」
まで行く。
「今回はうまくできたね」
と褒められただけなのに、
「次も成功しないといけないのかな」
まで行く。
心というのは、ときどき頼んでもいないところまで荷物を運んでくれます。
親切なのか、おせっかいなのか、よく分かりません。
私は「正しいことを言えばいい」と思っていた
この論文を読んで、個人的にいちばん考えさせられたのは、
「正しいことを伝える」ことと、「相手が次に動ける」ことは、同じではない
という点でした。
これは仕事でも、人間関係でも、かなりある気がします。
こちらとしては、
「間違っているから指摘した」
だけなんです。
内容としては正しい。
理屈も通っている。
なんなら証拠まである。
こちら側の法廷では、完全勝訴です。
でも相手を見ると、しょんぼりしている。
あるいは、防御態勢に入っている。
「いや、でも」
「それはこういう事情があって」
と、急に話が別方向へ進んでいく。
こちらは思います。
「いやいや、責めているんじゃなくて、次から直してほしいだけなんだけど」
でもたぶん、そこで起きていることこそ、この論文が扱おうとした問題なんですよね。
こちらが何を言ったか。
それだけではない。
相手の頭の中で、その言葉がどこへ着地したのか。
そこまで含めて、フィードバックなのかもしれません。
人は「自分」の話になると、急に荷物が重くなる
私は今回、
「仕事の話は、仕事の大きさで終わらせていい」
という考え方が、とても気に入りました。
たとえば、
「今日、ひとつ確認を忘れた」
これは小さな出来事です。
でも、
「私は確認のできない人間だ」
になると、急に話が重くなります。
今日の話だったのに、過去まで連れてきます。
「あのときもそうだった」
「昔からそうだった」
そして未来まで呼んできます。
「これからもきっとそうだ」
一回のミスで、過去・現在・未来が全員集合です。
豪華です。
でも、そんなに集まらなくていい。
今日のミスなら、
「次にどうするか」
まで考えれば、とりあえず今日の会議は閉会してもいいのだと思います。
これは誰かへのフィードバックだけではなく、自分自身への言葉でも同じです。
私たちは、自分にはずいぶん大きな言葉を使います。
「ダメだ」
「向いていない」
「自分はこういう人間だ」
でも、
「今回はここで失敗した」
という文章と、
「自分はダメな人間だ」
という文章の間には、かなり広い川があります。
失敗は出来事です。
人格ではありません。
当たり前のようですが、落ち込んでいると、この二つはすぐ橋でつながります。
しかも工事が早い。
気づけば四車線くらいになっています。
だから、ときどき橋を一本外して、
「いや、今回は今回だ」
と戻してあげてもいい。
KlugerとDeNisiの研究を読んでいて、私はそんなことを考えました。
「褒めるか、叱るか」より、もう少し静かな話だった
この論文を読む前なら、
「フィードバックについての研究」
と聞いたとき、
私はたぶん、
「褒めるのと叱るの、どっちが効果的なの?」
みたいな研究を想像したと思います。
でも実際には、もっと静かな話でした。
褒めるか。
叱るか。
優しく言うか。
厳しく言うか。
もちろん、それらも大事です。
でもその下に、
「その言葉で、相手は何を見ることになるのか」
という問題がある。
自分を見るのか。
失敗を見るのか。
課題を見るのか。
次の一歩を見るのか。
そう考えると、フィードバックというものが、急に「言葉選び」の話ではなくなります。
視線の話になります。
私はここが、とても好きです。
「いい言葉を言いましょう」
だけなら、少し道徳の授業っぽくなります。
でも、
「相手の注意はどこへ行くだろう」
と考えると、そこには観察があります。
人を決めつけずに、ちゃんと見る姿勢があります。
そして、これは少しアドラーっぽいなとも思いました。
人そのものを裁くのではなく、
「では、この先どうする?」
を見る。
過去の判決文より、これからの一歩を考える。
もちろん、この論文はアドラー心理学の論文ではありません。
ここは混ぜてはいけないところです。
でも、別々の道を歩いてきた考え方が、遠くの交差点で少し似た景色を見せてくれることがあります。
心理学の面白さは、そういうところにもある気がしています。
人に何かを言う前に、ひと呼吸ぶんだけ考えてみる
私はこの論文を読んだからといって、
「明日から完璧なフィードバックができるぞ」
とは思いませんでした。
たぶん無理です。
人間ですから、イラッとすれば、
「なんで毎回こうなの?」
くらい言いたくなる日もあります。
言ったあとで、
「毎回ではなかったな」
と気づくこともあるでしょう。
でも、完璧にはできなくても、
言葉を渡す前にほんの一瞬、
「この言い方をしたら、相手は自分を責め始めるかな。それとも次に何をするか考えられるかな」
と想像することはできます。
その一瞬があるだけで、言葉は少し変わるかもしれません。
そしてこれは、誰かに対してだけではありません。
自分が失敗した夜にも使えます。
「今日の自分はダメだった」
ではなく、
「今日はここがうまくいかなかった」
にする。
たった数文字の違いです。
でも、
「自分」
から、
「今日の出来事」
へスポットライトを戻すことができます。
そこには、ずいぶん違う夜がある気がします。
最後に
心理学の論文を読んでいると、ときどき、
「人間をもっと上手に動かす方法」
を研究しているように見えることがあります。
どうすればやる気が出るのか。
どうすれば成績が上がるのか。
どうすれば仕事がうまくいくのか。
でも今回の論文を読んで、私はむしろ逆のことを感じました。
人間は、そんなに簡単には動かない。
正しいことを言っても、正しく受け取られるとは限らない。
褒めても、必ず伸びるわけではない。
改善点を教えても、課題ではなく自分自身について考え始めることがある。
だからこそ、人を見るときには少し丁寧さがいる。
「こう言えばこう動く」
ではなく、
「この人の中では、何が起きるだろう」
と考えてみる。
私は、そのくらいの心理学が好きです。
人を操作するための心理学ではなく、
人は少し複雑だから、急いで決めつけずに眺めてみよう
という心理学。
「アドラーの昼寝」も、できればそんな場所でありたいと思っています。
何かがうまくいかなかった日に、
すぐ自分へ大きな判決を出すのではなく、
「さて、今日はどこでつまずいたんだろう」
くらいに問題を小さくしてみる。
そして明日の自分に、
「次は、ここを見てみよう」
と小さな道しるべを置いておく。
人を伸ばす言葉というのは、
強く背中を押す言葉ではなく、
案外、
足元が見えるくらいの明かりを置いておく言葉
なのかもしれません。

制作ノート
出典論文:Kluger, A. N., & DeNisi, A.(1996).
The Effects of Feedback Interventions on Performance: A Historical Review, a Meta-Analysis, and a Preliminary Feedback Intervention Theory.
Psychological Bulletin, 119(2), 254–284. DOI:10.1037/0033-2909.119.2.254
掲載・確認先:APA PsycNet / Google Scholar / CiNii Research
記事について:本記事は、上記論文の内容をもとに、一般の読者向けに要約・解説したものです。原文の趣旨を尊重しつつ、読みやすさを重視して再構成しています。
制作体制:本記事は、GPT-5.6 Thinking (Sol)を用いて下書きを作成したうえで、当サイト管理人・阿部牧歌が内容を確認し、表現や流れを整えながら仕上げています。機械の速さと、人の目と感覚の両方を生かしながら、読みやすく信頼できる記事づくりを目指しています。




